2025年読んで良かった本のまとめです。
- 「働き方全史: 「働きすぎる種」ホモ・サピエンスの誕生」
- 「アメリカは自己啓発本でできている: ベストセラーからひもとく」
- 「タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源」
- 「エビデンスを嫌う人たち: 科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?」
- 「歩くという哲学」
- 「ネット怪談の民俗学」
- 「思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド」
- 「暴力の人類史」
- 「未整理な人類」
- 「ハッピークラシー――「幸せ」願望に支配される日常」
「働き方全史: 「働きすぎる種」ホモ・サピエンスの誕生」
「人間はこれまでどのように働いてきたのか」について、人類史のスケールで網羅的に解説しており、労働論として非常に読み応えがあります。中には「人類は農耕を始めたせいで死に物狂いで働かなければならなくなった」という話など、「サピエンス全史」他で既に見聞きしたことのある情報も出てきます。が、どのページにも新鮮な驚きがあり、しかもかなり読みやすくて一気に読破しました。
人間が「働かなくてもいい状況においても働いてしまう」のはなぜか。本書では、それをエントロピーの法則に従っているからだと説明します。巣を作っては壊す鳥のように、無駄な仕事でもやらざるを得ない存在が人間なのだ、という指摘が腑に落ちました。
「人間は退屈に耐えられないために、わざわざ自分から不幸になっている」というパスカル的な話も出てきますが、ニュートンやアインシュタイン、デカルト、アルキメデスの功績も、退屈から生まれた可能性があると言及されています。
「アメリカは自己啓発本でできている: ベストセラーからひもとく」
著者の書き方がかなり好意的というか、「こういう本に頼らないとがんばれない人たち」の立場に寄り添っていて好印象でした。斜に構えたり、馬鹿にしたりする感じがまったくなくて、そのフェアで温和な立ち位置がこの本の読み心地をよくしてくれています。それでいて批評はしっかりとしていて文体もやたらテンポがよく、口当たりが軽いのでサクサク読めます。「自己啓発書のなかにはしっかりトンデモ本もあるよ」という話もきちんと区別して書いてくれていて誠実です。
なかでもおもしろかったのが、「引き寄せの法則」にも一応の論拠らしきものがあり、それが提唱者独自の神学的信条の上では矛盾なく成立している、という指摘です。ざっくり噛み砕くと、こんな感じ↓
- 神は実体をもたないまま宇宙を満たしている
- その神は万物すべてに宿っている
- 人間も万物の一部なので、当然人間の中にも神が宿っている
- つまり人間にも、神と同じ「望んだものを望んだだけ手に入れる能力」がある
- 人間の願望は、そのまま神の意志
- 神の意志は必ず叶う
- よって、願えば叶う
”宇宙の意志力”とか”無限の供給量”とか、それっぽい材料を寄せ集めて捏ね上げた与太話ではあるのだけど、神話というものは本来そういうものだし、人間はそうしたふんわりしたトンデモ説明を与えられることで、「よし、ちょっと前向きに行動してみるか」という活力を得ることがある。著者はそこのところをしっかり解説してくれたうえで、「科学的に間違っているので無意味」と切り捨てるようなことをしません。この距離感がちょうどいいなと感じます。
「タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源」
私はこれまで生物学系の本にはあまり馴染みがなくて、「バッタを倒しにアフリカへ」ぐらいしか読んだことがなく、関心もそこまで高くはありませんでした。それでもこの本は、タコの意識や思考、認識を通して、”知性”や”心”とはなにか?を考えさせてくれる内容で、自然と引き込まれました。
ちなみにこの本には、
- 「正直まだぜんぜんよくわかってないことの方が多いっすね」
- 「人間に似てる部分もあるけど、断定はできないっすね」
……的なまとめがすごく多いです。現時点で断言できることは少ないようで、結論もかなり控えめです。
それでも、すでにわかっていることだけでも私にとっては新鮮でした。たとえば、タコは頭だけでなく手足にもめちゃくちゃな数のニューロンが通っていることや、”頭の良さ=脳みその大きさ”、という単純化はできそうにない、ということなど。
最近、動物の主観や感覚とはいったいなんなのか、ぼんやり考えることがありますが考えたところでわかるはずもなく、こうした専門書を読んでも「まぁ結論よくわかんねっすね」で終わることが多くて「わからないんだな〜」ということがわかる、という作業を淡々と繰り返しています。環世界の話なども含め、「どうも人間と他の動物とは感覚が違うらしいぞ」ということだけはわかっている。でも、その中身や実態はな〜〜んもわからない。その歯痒さと同時に、オモロさも感じました。
「エビデンスを嫌う人たち: 科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?」
この本では、エビデンスを嫌う人、いわゆる”科学否定論者”は、なぜ科学を否定するのか?について解き明かす!という壮大なテーマに挑んでいます。同時に、世界平面説支持者や遺伝子組み換え食品を忌避する人たちとの対話を通じて、どうすれば彼らの考えを変えうるのかについても探っています。
素人考えでは「科学否定論者が科学を否定するのは、彼らが愚かだからでは?」と短絡的に結論づけてしまいかねないところ、本書では「科学否定論者が科学を否定するのは、それが彼ら自身のアイデンティティと分かち難く結びついているからである」という仮説が提示されます。そのために、「科学的に正しい」「安全性が研究によって実証されている」などの一点張りでは、彼らの意見を変えることはできないと指摘されています。
この本を読んで、自分の偏った信念や先入観を反省する良い機会になりました。科学的な言説を信奉しつつ、一方で一貫性なく非科学的な情報を鵜呑みにすることは十分あり得ます。科学的根拠が乏しいにもかかわらず、「テレビで言っていたから」「ネットのみんなが言っているから」と信じてしまった過去を思い返します。もしかしたら今この瞬間ですら、無意識の思い込みによって目が曇っている分野があるかもしれない……とも感じました。
「歩くという哲学」
とてもいい本でした。久しぶりに、じっくりゆったり本を読んだ気がします。いちばん最初の章を読み終えた段階で、これは読み終わるのがもったいなく感じるタイプの良書だと直感しました。
本書の中で紹介されていたエピソードのひとつに、詩人ランボーの話があります。ランボーにとって歩くことは、逃避そのものでした。家族関係がうまくいかず、家出して外国を放浪しまくっていたらしいです。
「こんなところにいられるか、俺は歩いてどっかに行くぞ!!」という勢い、これ以上1秒たりとも居たくない場所を飛び出し、知らない土地をひたすら歩き回るときのトリップ感。その心地よさには、とんでもなく身に覚えがあります。自分の家のことはいつだってめちゃくちゃ大大大好きですが、それでも家出をすることの爽快感や自由な感じは普通に両立しているのは、なんとも不思議だなと思います。
それでも、家出はいくつになっても楽しいものです。「その気になりさえすれば、ひたすら歩くことで平然とどこかに行けてしまえる」という事実を確認できるのが大事なのだと思います。それは紛れもなく、リセット欲や蒸発願望と呼べるものの一種ですが、人間は”ただ歩くだけ”でいとも簡単に別の場所まで逃げ延びられる、ということを、普通に暮らしていると忘れてしまいます。本書は、その自由な気持ちを思い出させてくれる存在でした。
「ネット怪談の民俗学」
知らないオカルト話がたくさん載っていて、とても嬉しい本でした。著者のリサーチ力がものすごく、「ネットホラー」と分類できそうなネタはほぼ網羅しているのではないかと思うほどのボリュームです。内容は概略を淡々と紹介しているだけなのに、普通に怖くてお風呂に入る前には読めません。
たとえば、因習村系のネット怪談を無遠慮に消費するTwitterなどのムーブメントは、現実の田舎に対する差別を助長する可能性があります。一方で、そうした作品そのものの良し悪しは”生活者自身”が判断すべきものであり、研究者が裁定するものではない、という指摘にはとても納得しました。そういうものをおもしろがる空気が強まれば作品が増え、弱まれば減る。それ以上でも以下でもない、というような見方です。
本書では「感度の高い人ほど異文化を恐怖として無邪気に楽しめなくなっている」という指摘もありますが、たしかに、近年の流行を見れば、因習村系のネット怪談は減少傾向にあるのではないかという著者の予想にも頷けます。
後半ではバックルームやリミナルスペースといった近年のネットホラーのトレンドにも触れられています。物語性の強いホラーよりも、「なんか怖い」「なんか不穏」という、言語や物語に回収しきれない”雰囲気そのもの”を共有して遊ぶ文化が広がっているという分析は、まさにその通りだと感じました。
「思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド」
良質な毒の含有量が多く、めちゃくちゃに自分好みの切れ味で、最初からしっかり心を掴まれました。絶対おもしろい本だと1章で確信し、「1章でおもしろいと感じた本は、最後までおもしろい」という自分の中の法則に、きれいに当てはまっていました。
まず共感したのは、書くことに伴う”恥”についての記述です。ものを書くというのは、大なり小なり恥をかく行為であり、それでも「自分をたしかめ、他人をたしかめる」ためには、その工程を避けて通れない。だからこそ、ごまかさず、権力におもねらず、勝ち馬に乗らず、忖度しない。その率直さこそが書き手の倫理なのだ、という主張には強くうなずきました。
また、書き手を突き動かすのは”問い”であるという一節には、もはや「感銘を受けた」と言うほかありません。
問いをもって書くことは、何かを求めることです。この希求する心がないと、書くことは長続きしません。「求める」というあり方は、私的な好みでもなければ、公的な使命感でもない、いわば第三のエネルギーの源泉です。
書きたいことには「好きなこと」と「公に求められること」がある、という話はよくありますが、本書が指摘する「知りたいことがあるから読むし、書くのだ」という視点には「そう!!!」という大きな声が出ました。
私にとっても、知りたい、読む、書くという流れは、趣味とも仕事とも違う営みです。だからこそ、それはあくまで率直に、嘘や欺瞞や損得勘定のない態度でなされなければならない。その流れを欠いた文章は、たとえAIが代筆しようと、金銭に換算されようと、意味がない。このことを肝に銘じていきたいと思いました。
「暴力の人類史」
1ヶ月ぐらいかけて読んだ、めちゃ長すぎオモロ鈍器です。
暴力は、当事者同士の命や物資の奪い合いにとどまらず、権力の誇示にも、キリストのように他人の罪を贖う象徴にも、無関係な第三者への娯楽提供にもと、かなり汎用的に扱われてきました。
ところが中世後期になると、貨幣や輸送機関の発達によって、略奪よりも商取引によるプラスサム・ゲームのほうが効率的になります。国家は公共財を提供し、暴力的な機能を中央集権的に独占することで、内輪揉めを抑えました。テクノロジーと自由市場が人類の合理性を高めたという整理には、一定の納得感があります。
ただし、経済成長が直接的に人を優しくしたわけではありません。著者は、近代ヨーロッパで残酷な拷問や処刑が減った背景として、活版印刷の普及による識字率の上昇と読書体験、特に小説による共感能力の拡張を挙げます。いわゆる「人道主義革命」です。
拷問や戦争の体験を共有し、フィクションを創作することが、むしろ平和を促進した。テクノロジーと人文学的倫理観が両輪となって文明が発達した、という説明は出来すぎている感じもしますが、個人的には「絶対そうじゃん!!!」と思いました。文系不要論者に聞かせてやりたいですね。
一方で、文学や倫理だけに寄りすぎる危うさも指摘されます。ピンカー自身、「21世紀の啓蒙」でも、「19世紀西洋の知的レイシズムは科学ではなく、歴史・哲学・古典学・神話学などの人文学から生まれた」と指摘しています。ファクトと想像力のバランスは不可欠です。
下巻では、個人の権利意識や抽象的思考能力の広がりが、暴力の減少に寄与したと強調されます。若い世代の人権意識が高いのも、教育や文化を通じて他者の視点に触れてきた結果だと思います。個人的には、こと日本に関しては、アニメや漫画といったエンタメが果たした役割も大きいのではないか、というようなことも感じました。
それにしても長かったです。めちゃくちゃおもしろい本ではありましたが、再読はたぶん一生無理だと思います。
「未整理な人類」
不合理だったり不条理だったりする人間の行いを、どこか愛おしく思う気持ちに満ちた本です。そう書くとずいぶんきれいに聞こえますが、内容はかなり強烈で、正直カオスというほかありません。端的に言えば巷にいるヤバい人々列伝といった趣で、たとえば「街中の自転車のサドルをひたすら盗み続ける人」のような、偏執的な性質をもつ人々について語られています。
人間は本当にわけのわからない理由で人を傷つけたり、迷惑行為や犯罪に及んだり、あるいはそれを芸術へと昇華したりする存在なのだ、という話が一貫して続きます。作中で触れられる「芸術と犯罪と症状は似ている」という言葉は、著者自身の実感が強くこもったフレーズであり、これほどまでに理解不能な人々を見つめ続けてきた著者の言葉だからこそ、強い説得力があります。
自分自身も、「ものごとに説明がつく」という幻想の無邪気さに、若干辟易しているところがあります。そのためか本書に登場する人々のめちゃくちゃさがなんとも言えず嬉しく、読みやすさも相まって一気に読了しました。理屈で説明することの脆弱さや、ナンセンスなものを自分に理解可能な形へと貶めてしまう野暮ったさを、もっと積極的に嫌っていきたいと感じました。
自分が楽しいと思って、あるいは信念をもって行っていることも、他人から見れば十分にわけのわからない言動の範疇に入るはずです。そう考えれば、本書に登場する人々の行為を、簡単に他人事として片付けることはできません。自分はたまたま、今のところそれによって直ちに咎められる立場にいないだけで、そのボーダーラインがいつこちら側ににじり寄ってくるかはわかりません。逆に自分が知らず知らずのうちに、それを踏み越えてしまうこともあるでしょう。
だからといって、その境界を恐れて萎縮しながら生きるのは、社会の圧力に屈することと同義です。もっと人は、自分自身の”わけのわからなさ”に寛容になってもいいのかもしれないなと感じさせられました。
「ハッピークラシー――「幸せ」願望に支配される日常」
本書が主に槍玉に挙げるのは、1990年代に心理学者マーティン・セリグマンが推し進めた「ポジティブ心理学」です。1998年にアメリカ心理学会会長となったセリグマンの影響で、ポジティブ心理学は心理学にとどまらず、経済学、教育学、政治学、人文科学、神経科学など多分野へと急速に広がりました。
これには学術界だけでなく、コーチ、スピーカー、コンサルタント、セラピー産業の担い手たちも大きな恩恵を受けました。彼らは厳格な知識体系を欠いたまま、心理学、宗教、神秘主義、神経科学、東洋思想、個人的体験などを寄せ集めながら、市場を拡大していきます。こうして生まれたのが新しい「幸せの科学」によって、科学者と”業者”が同じ言葉で語れるようになる世界でした。
”幸せ”や”最高の自分”を探す道が商品化され、誰もが心理学的支援を通じて自己改善へと導かれる時代になります。幸せは「感情商品(エモディティ)」として市場で流通し、サービスやセラピー、物品として売買されるようになります。人々は「幸せになりたい」「人生をよくしたい」という自然な欲望によって、自己実現や自己管理へと駆り立てられていったのです。
この本のすごさは、「幸せになりたい」という人間の根源的欲望そのものを否定するのではなく、それがどのように市場化され、イデオロギー化され、支配構造に組み込まれているのかを、冷静に解剖している点にあります。個人的には「アメリカは自己啓発本でできている」「エビデンスを嫌う人たち」の流れをくんだ、集大成的な本が読めてよかったなと感じます。人が幸せになりたいと思うシンプルな欲求も、結局は商業主義に集約されるのか……という、悲しい納得感もありました。










