Baselog -生活と家計の改善のログ-

家計と生活改善と読書のログ。

2025年5月の読書ログ「怠惰への讃歌」「ネット怪談の民俗学」ほか

 

「怠惰への讃歌」

かの有名なバートランド・ラッセル!!の、ややマイナーどころ?のエッセイっぽい本。内容はわりと難しめで、Chat GPTの助けを借りまくりながら読みました。

かつての社会では、勤労は無条件で善とされてきました。しかし現実には無駄で過酷な労働も多く、ましてや現代の技術をもってすれば、人は1日4時間働くだけでも十分に暮らしていけるはずです。それでも人々は「働かねばならない」という空気に縛られ、労働時間を減らせないまま、少人数が長時間働くことでかえって失業者を増やしていると指摘されています。この本は、ただ怠けることを推奨するのではなく、労働時間を減らして”ひま”をつくり、役に立たない勉強や自由な思索に使うべきだと説いています。そうだそうだ!

ラッセルは、このあまりにも先進的な主張以外にも、ファシズムが強まっていた当時に、平和主義や人種差別の非合理性を語っていたという事実にも驚きます。いま読んでもなんら違和感のない人道的で理性的な主張ではありますが、”「いま読んでも当たり前に感じる」ということの、当たり前でなさ”というものを感じずにはいられません。

Chat GPTにはラッセルの著書として「幸福論」や「西洋哲学史」などをおすすめされたので、そっちも読んでみたいな〜と思いました。むずそ〜〜〜。

 

「ネット怪談の民俗学」

自分はオカルトマニアというほどではないにしろ、ネット掲示板発祥のホラー小話みたいなものは通ってきたという自負がありましたが、それでも知らなかったオカルト話が多数紹介されていてとても楽しい一冊でした。ネットホラー系のネタが網羅されており、概略紹介だけでもしっかり怖い。

とくに”因習村系”と揶揄交じりに呼ばれている類の怪談が、現実の地方差別につながる可能性や、その可能性をふまえてなお、作品の良し悪しは読者自身が判断すべきであるという著者の指摘には納得感がありました。近年のネットホラーは”物語性のない不穏さ”が好まれる傾向が強まり、因習村系のようなストーリー重視の怪談は減少していくかもしれないという予想も示されています。これは民俗学者特有のものなのか、研究対象との距離感やバランス感覚のようなものが適切に保たれており、安心感をもって読むことができました。

 

「存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」

自作の小屋で暮らそう ──Bライフの愉しみ」の著者による、死の恐怖(タナトフォビア)を正面から扱った一冊。私にとって著者は、”タナトフォビアは一生治らない”という現実を教えてくれた存在であり、そのほかの思想にも深く影響を受けていると自覚しています。

本書は、"この自分"が消えるという絶対的な事実を回避できないことに対し、あらゆる慰めを拒否しながら、それでもどうにか日々を生きようとする人間の思考のログとして読むことができます。筋金入りのタナトフォビアである著者は死に対してしっかり絶望しており、どんな慰めの言葉にも、宗教的な常套句にも一切なびかず、誰よりも日常的に死の恐怖に苛まれているように見えます。

死の恐怖は、向き合ったところで取り除けるものではありませんし、そもそもどう向き合えばいいのかすらも分からないものです。いずれ慣れることはあるかもしれませんが、それが恐怖そのものの根本的な解決になるわけではありません。結局のところ諦めて震えながら眠るしかないのだという境地に至っている点に、「死ぬのが怖いのって自分だけじゃないんだ……」という微かな安心感を覚えます。

 

「世界はシンプルなほど正しい 「オッカムの剃刀」はいかに今日の科学をつくったか」

中世、神学者のトマス・アクィナスは、古代ギリシャのアリストテレスの理論にキリスト教の哲学を組み込み、神学を”科学の女王”にしようとしました。彼は神学に基づいた哲学では説明が難しい問題、たとえば「イエスの肉体でできているとされるパンに、なぜ味や脆さといった偶有性が付け加わるのか」といった疑問に対しても、その場限りの理屈を捻り出しました。そしてそれがどれほど非合理的で奇妙な解釈であっても、キリスト教の標準的な教義として定めていきました。

キリスト教の”神の思し召し”という文脈で説明しようとすれば、複雑な要素をいくらでも継ぎ足すことで、あらゆることに科学的らしい説明を与えることはできますが、未来の予測はひとつもできません。それに対して、「オッカムの剃刀」のオッカムは、「簡潔に説明できることに、いちいち余計な要素を足すな!」と主張しました。

オッカムの剃刀にこんなアツい背景があるとは知らず、これまでプロクルステスの寝台やダモクレスの剣といった他のエポニムとごちゃ混ぜになって意味がよくわからなくなっていたのですが、その混乱が解消されました。ただ著者の(もしかしたら訳者の、かもしれませんが)オッカムの剃刀に対する解釈には一抹の疑問があり、素直な気持ちで読むことができていない自覚もあります。端的にいえば「世界はシンプルなほど正しい」は嘘だよなぁ……という感想。

 

「「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策」

認知科学や行動経済学の知見をコミュニケーションに応用すれば、ディスコミュニケーションを完全に解消することはできなくても、誤解のきっかけを減らすことはできるのではないか――本書は、そうしたやや控えめな姿勢で語られており、その慎重さに信頼が持てます。

人と人とが完全にわかりあうのは不可能です。なぜなら、人はそれぞれ異なる環境で育ち、ものの捉え方や反応のしかたにも癖があるからです。ただし、「どうせわかりあえない」と突き放してしまえば、コミュニケーションという営みそのものが成り立たなくなります。

ではどうすればいいのか?というところで、大切なのは、そもそも人は完全にはわかりあえないという前提に立つことだと言います。そのうえで、できるだけ相手の自尊心を傷つけないように注意を払いながら、丁寧に、探り探りやりとりを続けていくほかありません。わかりあうことがゴールなのではなく、誤解や衝突を少しでも避けるための工夫が、人と人とのコミュニケーションには求められているのだという結論には、おおいに腑に落ちるものがあります。

 

「「書く力」の教室 1冊でゼロから達人になる」

別著ですが、「読みたいことを、書けばいい。」は、自分にとって文章を書くうえでの行動指針のような存在で、何度も読み返してきた本です。その実践編ともいえるのが本書『「書く力」の教室』で、ライターとして実際に仕事をしていくうえで必要なスキルや心構え、つまずきやすいポイントなどが、非常に具体的に語られています。

読んでいると、「自分にはここまでの行動力やパワーはないな……」と落ち込む場面も正直ありますが、それでも”文章を書く”という趣味の範囲でも役立ちそうなヒントが随所にちりばめられていて、得るものはありました。特に印象に残ったのは「自身の“知りたい”という気持ちと、文章というアウトプットが結びついていることが、ライターという仕事の本質である」という指摘です。情報を伝えるだけでなく、自分の好奇心を出発点にしていいんだ、と励まされました。

実用的でありながら、書くことに対する姿勢にも深く触れてくれる1冊です。プロ志向の方にも、趣味程度に書くことが好きな人にもおすすめです。

 

「デジタルの皇帝たち――プラットフォームが国家を超えるとき」

めちゃくちゃかっこいい装丁で、専門的で難しい内容なのかな?と思いきや、インターネットやコンピューターの知識がなくても読みやすくておもしろかったです。

自由を愛するリバタリアンなネット民と、その自由を利用して好き勝手する利己主義者たちとの抗争からインターネットビジネスの歴史は始まっていた、という導入が印象的でした。初期ネット民が嫌っていたのは地元のような窮屈な村社会で、誰とでも繋がれるインターネットに楽園を見出したはずなのに、いざ本当に多様な人々がアクセスするようになると、逆に「昔はよかった」と嘆く側に回ってしまうという皮肉。多様性ゆえの扱いにくさが、彼らにとっての自由をむしばむことになったのです。

自由を守るには管理が必要で、管理はやがて支配となり、結果としてプラットフォーム管理者が独裁者になってしまう。この構図は何度も繰り返されてきました。かつて国家が担っていた機能は、いまやシリコンバレーのアルゴリズムが担っています。それは当初リバタリアンたちが夢想した自由市場と呼べるものではないかもしれませんが、デジタル経済は国家と見紛うほどに巨大化しており、いずれ”国家を超える”可能性すらあるのだと説明されています。

 

「布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章」

アナキズムとフェミニズムを両輪として社会変革を目指すアナーカ・フェミニズムという立場から、男性主体的な社会構造やルッキズム、古めかしい儀礼を強要する同調圧力などを批判するエッセイ集。両者の思想が両立しうるという点にまず驚きがありましたが、読んでみると納得できる部分が多かったです。

アナキストやフェミニストの言葉は怒りや悲しみを原動力としており、ときに苛烈です。彼らの行動力や、変革をあきらめない姿勢には心を打たれますが、一方で、自分は考えるだけで満足してしまい行動にはなかなか結びつかない人間であることを自覚させられます。し、個人的には社会の変革よりも、自分の生活や思索を優先したいという思いもあります。

それでも、こうした”行動する人”がいることに、どこか頼もしさや希望のようなものを感じました。世の中のありえないことや意味わかんないことに対して、鵜呑みにしたり諦めたりするのではなく、いちいちちゃんと怒っていくという姿勢。見習いたいし、自分も心の中にアナキストの精神をひっそりと住まわせつつ、理不尽にはひっそりと、しかし確実にブチギレていくぞという決意をもらえました。

 

「思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド」

めっちゃいい本です。こんなどうでもいいブログの文章を読むよりこの本を読んでください。自分に言えることはそれだけです……。

庭は「テクスト」と似ています。庭ではすべての植物が均質に育つわけではありません。きれいな花が咲いている区画がある一方、まだ種をまいたばかりのものもある。でも、シーズンごとに色々な植物に出会えるのが楽しいのだから、庭の生育状況はまちまちでよいわけです。言い換えれば、庭の植物のあいだには時差がある。

さらに、庭はオープン・システムです。小鳥の鳴き声があり、小動物のすみかがあり、草花の香りがある。ときには風雨にさらされて、樹木や花がダメになってしまうこともある。庭は外界のダメージを受けやすい。それでも、庭を外界から切り離すことはできません。適切にメンテナンスをすれば、むしろ外界からの作用をプラスに変えることもできます。

そして、庭の動植物たちはネットワークを成しています。個々の花は孤立しているわけではなく、相互に干渉しあっており、そこに動物というアクターも参加します。あまりに植物が密集すると、うまく育たない。そこで園芸家は工夫して苗を植え、剪定して、 庭の形を整えていくわけです。

(83p)

タイトルにもある「思考の庭」について、自分自身の思考というものは、自宅の庭を手入れするように手入れし、外部からの刺激も柔軟に取り入れていき”育てていくもの”なのだと解説されています。自然状態にある庭は、保存され永久に形を変えずにあるものではなく刻一刻と変化していくものであり、適切にメンテナンスをしなければ荒れ果てていくものだということです。かっこいいメタファーだな〜〜(バカの感想)

著者のちょっと毒もあるけど含蓄に溢れる文章が好きすぎて、速攻で別著も買いました。まだ積んでますが……。とにかくおすすめ!!