Baselog -生活と家計の改善のログ-

週休5日を夢見る派遣社員。

2024年5月の読書ログ「超人ナイチンゲール」「心はこうして創られる」

5月に読んだ本のまとめです。

超人ナイチンゲール

すごくおもしろくて売れていると聞いて。こういう偉人伝的な本をあまり読んだことがなかったのですが、好きな作家が好きな文体で書いてくれるとするすると読めてしまっていいですね。ただそのぶん、作家性というか独自の解釈みたいなものが挟まっていそうな気配はすごかったです。

ナイチンゲールの精神力は言わずもがな凄まじいけど、それ以上に目的達成のために金にもの言わせまくっているのが笑ってしまうほどかっこよかったです。逆をいえば「実家が太かったからこそ達成できた」ともいえて”現実”を感じました。終盤ナイチンゲールの共感者がみんな過労死しまくってるのもそれでいてナイチンゲール本人はなかなか死なないのもすごい。

 

逸話がパンクすぎる

ナイチンゲールは屈強な男たちをひきつれて倉庫にいく。手にはハンマーでももっていただろうか。いつものように責任者の命令がないとダメだというこっぱ役人。しかしナイチンゲールはこういった。わたしがその責任者です。

えっ。あっけにとられる役人。それをしり目に、ナイチンゲールが檄をとばす。野郎ども、やっちまいな。ヘイ!倉庫をこじあけて、なかにのりこんでいく男たち。うおお、いっぱいあるじゃねえか。つぎからつぎへと必要物資をもちさっていく。なにをやったのか。軍の物資を強奪したのだ。ヒャッハー。

(中略)

こい願うものは何物もあたえられず、強請するものは少しあたえられ、強奪するものはすべてをあたえられる。ナイチンゲールが民衆のヒーローになった。暴れてうばって、はしゃいでばら撒け。ハンマーをもった天使はこういった。強奪はケアでしょ。

ここがこの本のサビです。パンクすぎる。基本的に公権力が嫌いなのが伝わってきてアナキスト的な気骨の持ち主だったことがうかがえます。栗原節との相性が良すぎる。

この箇所以外にも、権力だけでなく、名誉とか個人的な資産などにも執着がなかったことがわかるエピソードが多く取り上げられています。それはナイチンゲールが富裕層の出身だったから、太い実家があったからこそ育まれた精神性である、というのは大いに関係していると思われます。が、どんな出自にしろ、とにかくナイチンゲールには溢れんばかりの奉仕の精神があり、社会的強者に対する反骨精神もあって、しかも人柄はとびきりに魅力的とくれば、周囲の人に慕われていたのも頷けます。

 

「脱病院化」については疑問符

しかし、地域看護から看護師登録制度への批判。そしてヘルスミッショナーにいたるまで、シャカリキになっていたナイチンゲール。その思想をいったいなんとよべばよいだろうか。わたしは「脱病院化」だとおもう。

じつはナイチンゲール、「貧しい病人のための看護」(一八七六年)で、「病院というものはあくまでも文明の途中のひとつの段階を示しているにすぎない」といっていた。医療の未来に病院はないと。

この一文だけだと、ほんとうにそうかとおもわれるかもしれないが、もっとまえに、いとこのへンリー・ボナム・カーターに宛てて、こんな手紙を書いていた。

  およそ看護の最終目標は、病人を彼ら自身の家で看護することだというのが私の意見です。私はすべての病院と施療院が廃止されることを期待しています。 でも、二〇〇〇年のことについていま話したところで何にもなりませんね。

しかし、それだけじゃない。ナイチンゲールにはあくまで「脱病院化」とよべる思想があった。「病院」を前提とすることであたりまえになっている、治療する側と治療される側の垣根をこえようとしていたのだ。

救うものが救われて、救われたものが救っていく。日常生活のなかで、そんなあたらしい生の形式をつくりだすことができるかどうか。それにふれた人びとの魂をどれだけゆさぶることができるのか。

ケアの炎をまき散らせ。看護は芸術である。集団的な生の表現である。看護は魂にふれる革命なのだ。

ここはおそらくいちばん重要なテーマながら、個人的には「そうかなぁ……」となった部分。

現代でも、この「脱病院化」は起こっていないとみて間違いないでしょう。治療や看護はアウトソースされるのが一般的であり、それを家の中で完結させるというのはむしろ前時代的ですらあるとみなされます(病人の看護や老人介護をお嫁さんが一手に引き受けさせられたりとか、ヤングケアラー問題とか)

身内、友人、地域で助け合う社会では、それに適応できない人(要するに隠キャ)が排除され、人脈がなくてもお金さえ払えば病気の治療や介護が受けられる社会は、貧乏人を淘汰していく。そのどちらに偏っても危険だから、受け皿として社会保障というものがある。損得勘定を抜きにした、救う側と救われる側の垣根のないケアが理想というのはなんとなくわかるけど、それは家族や地域などの枠組みも超越した、福祉の最終形態というかんじです。

それでいてケアする側の労働力もタダではないし無限ではないので、実現は難しそうだな~(他人事)と思ってしまいます。結局のところ人望さえあればある程度のことはなんとかなる社会では、陰キャはお金を貯めるしかないのか??と思っていたところに「ベーシックサービス: 「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会」という本を見つけ、一縷の希望を見出しつつも積読しています。そのうち読む……そのうち……。

 

心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学

ゆる言語学ラジオで言及されていた本。すみませんバリューブックスじゃなくてKindle Unlimitedで読みました……許してください……。

 

心は存在しない

本書で筆者は、心には表面しかない〔本書の原題はThe Mind is Flatである〕、と読者を説得したい。心の深みという、その発想そのものが幻想だ。心に深さがあるのではなく、心は究極の即興家なのだ。行動を生み出し、その行動を説明するための信念や欲望をも素晴らしく流暢に創作してしまう。しかし、そうした瞬間ごとの創作は、薄っぺらで断片的で矛盾だらけ。映画のセットがカメラ越しには確固たる存在に見えても、じつは張りぼてなのと似ている。

ここから引き出せる明白な結論は、私たちは自分の思考や行動を正当化するとき、心のアーカイブを閲覧してなどおらず、むしろ思考や行動を説明するときは創作を行っているのだ、ということである。そして、心の映像についてもそうだったように、この創作の過程があまりに素早く流暢なせいで、内なる心の深みからの報告であると思い込んでいるのだ。だが報告しているのではない。どんな問い(虎のしっぽのぐあいは?足は四本とも接地しているか?爪は出ているか引っ込んでいるか?)が思い浮かんでも、その瞬間に心の映像を創ったり直したりして答えているのと同じく、正当化を必要とする思考が心に浮かぶや否や正当化を創り出せるのだ(中略)

どんな問題でどちらの側に立っても弁が立つのが、この「解釈者」だ。頼りになる弁護士のごとく、どんな言動でも即座に喜んで弁護してくれる。ということは、私たちの価値観や信念というのは、まったくもって、自分が想像するほどには確固たるものではないのだ。

人間には心なんてない、ある人がある瞬間に何を感じているか(喜んでいるのか、悲しんでいるのか、なぜそうしたのか、など)についての「本当のこと」や「本心」などはなくて、あるのはその時々の解釈だけである、という話を延々している本。

とてもおもしろかったし言われてみれば「でしょうね」と思えるようなことが多かったし、個人的にはそもそもの直感からもそこまで意外な事実という感じはしません。みんなまるで自分に、文脈とか慣習とかその場のノリとかローカルルールとかを一切無視した、本能めいた純粋な「心なるもの」を持っているかのように感じてはいるものの、仮にそんなものに従って生きているとしたらあまりにも動物的というか、そこまで感情的な生き物ではないだろうなという気がします。

人間はどうしたって文脈から抜け出せないし、前提を全く無視して、感じるままに感じるということはできない。実際はそうではなくて、「こういうときはこういうふうに感じるのがセオリー」的なルーチンワークがほぼ100%ではないでしょうか。心があるからそうしてるんじゃなくて、そうすることが総合的に都合よいからそうしているということは往々にしてある、というかそれがほとんどなのではないかと感じます。

損得勘定というとだいぶ即物的な印象があるけど、真の意味で損得度外視の行為はすなわち、ダイスの目みたいな確率のようなものでしかないのではないか。実際にはこの世のどこにも存在しないものを前提にし、あまつさえ個々人が勝手な解釈をしたり先入観をもってものごとを捉えようとする営みが「人間には心がある」という錯覚を生み出すのではないか、などなどと考えさせられます。

 

身もフタもなく無味乾燥な読み味が好みすぎ

「心なんて存在しない」というと自分の悲しみ(のようなもの)や喜び(のようなもの)が否定されたような気がして受け入れられない、という人もいるかもしれませんが、その「受け入れがたいぜ!」という反応だって、いままでの人生で摂取してきたあらゆるフィクションや周囲の人間の反応によってインストールされたテンプレートにすぎないのだとしたら、それはやはり心などというものではありません。

そして、それを切り離して語る(心を心そのものとして証明する)のはおそらく不可能です。十人十色の心のようなものがあるとして、それは「世界にはいろんな環境や境遇やローカルルールがあるよねぇ」という話にすぎなくなってしまうからです。そしてそれはべつに、ただそういうものだと受け止めればいいだけの話です。

「心はこうして創られる」は、終始こういう論調の、なんとも無味乾燥なかんじがする文体が貫かれていてたまらなく好き……となりました。マインドイズフラット。いずれ紙の本も買います。