Baselog -生活と家計の改善のログ-

週休5日を夢見る派遣社員。

2024年1月の読書ログ「本のある空間採集」「スピノザ 人間の自由の哲学」「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」「目的への抵抗」

1月に読んだ本まとめです

 

 

「本のある空間採集: 個人書店・私設図書館・ブックカフェの寸法」

全国の個人書店などの店内を訪問し、実寸して図面に起こした画集のような本。あまりにツボすぎて我慢できずに買ってしまいました。アイソメトリック図が好きで……。

紹介されているなかでは中国・四国地方の書店には行ったことのあるところもあるし、ずっと行ってみたかった書店もいくつか紹介されていて興味津々に読めました。死ぬまでに一度は行ってみたい本屋が沢山。

最近は本屋さんでひたすら買い物をしている様子を動画にしているYouTubeチャンネルなども延々見てます。こちら↓などおすすめです。

www.youtube.com

 

「スピノザ 人間の自由の哲学」

「ゆる哲学ラジオ」のスピノザ回が面白かったので、去年の年末ぐらいからスピノザの入門書を2冊、図書館で借りてきて読み耽っていました。

2冊の内容は重要な部分をかいつまんで解説しているためか結構かぶっていたので、おそらく自分が理解できているのはスピノザ哲学のほんの入り口のあたりなのだろうとは思いますが、それでも面白くて止まらなかったです。

知とか知恵とか言いますが、そもそも知恵があるとはどういう状態を指すのでしょうか。いろいろな説明の仕方があるでしょうが、わたしなりに表現するなら、知恵がある人とは「何が本当で何が嘘か分かっている人」のことだと思います。逆に言えば、知恵がない、あるいは足りない人とは、本当のことと嘘の見分けがつけられない人のことになるでしょう。そうすると、知を愛し求めること=哲学とは、要するに、何が本当で何が嘘なのか知ろうとすることに他なりません。

このような原義に立ち戻って考えるなら、哲学する自由が何を指すのかは明らかです。それは何よりもまず「知りたがる自由」なのです。つまり内容は何であれ、とにかく自分が気になることを自分の頭で考える自由、自分が本当だと思えることに自分の足(頭?)でたどり着こうとする自由のことなのです。

ただし、スピノザはさらにもう一歩先を行っています。彼は哲学する自由を、「考えたいことを考える」だけでなく「考えたことを言う自由」だと語っているからです。

人間の自然権に大幅な可塑性があるにもかかわらず、そこにどうしようもなく残る、いくら強制されてもそう簡単に手放したり譲ったりできない部分。これこそあの、『神学・政治論』全体を通してスピノザが強調してやまなかった「哲学する自由」です。魚に陸上で暮らすを強制できないのと同じように、人間に哲学しないで生きていくこと、つまり何が本当で何が間違いなのか考えないで生きていくことを強制するのは、人間の自然権のつくりからして不可能だというのです。

人間は知りたがり、知ったことを話したがる生き物であり、それは誰かに制限されてはならないものだし、そもそも制限などしようがないものであるというのが、スピノザの主張のベースと捉えました。そして、ここではそれを「哲学する自由」と表現しています。

本を読んだり、読んで知ったことや考えたことを誰かに話したり、文章にして残したがるのは、そもそも人間が生まれ持った性質なのだという主張は、個人的にはものすごく腑に落ちます。あまり一般化するべきではないのかもしれませんが、究極には人間は一生そのサイクルを繰り返して死んでいく生き物であると言えるのかもしれません。

それはなんらかの意味をもって行われることもあれば、なんの意味もなければ誰の許可を得ることもなく、”ただ人間はそうする(そうしてしまう)生き物だから”という理由で営まれているものです。そこに目的意識とか生産性を見出そうとすることはナンセンスな話だし、制限しようと思ってできるものではありません。それは、自分にとってはすごく逆転の発想的というか、まぁそういうものだから仕方ないんだよねと説得されたような気持ちになりました。

 

「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」

「暇と退屈の倫理学」を半分ぐらいまで読んで絶賛積読中の國分功一郎先生のスピノザ入門書も読みました。ちなみに「暇倫」は面白すぎて全部読むのがもったいなくてとりあえず図書館で借りた本を先に消化しよう……!!などと思っていたらそのまま半年ぐらい放置してしまっています。

次の「賢者」の話も、私の好きな箇所です。

もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ〔.....〕ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。(第四部定理四五備考)

これはまさしく「多くの仕方で刺激されるような状態」にある人のことです。「嘲弄」ではない笑いやユーモアは「純然たる喜び」であり、そうした喜びに満ちた生活こそ「最上の生活法」だとも述べられています。そういう生活法を知っている人こそが賢者なのです。

賢者とは難しい顔をして山にこもっている人のことではありません。賢者とは楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人のことです。なんとすばらしい賢者観でしょうか。

”色々なことを知って、表現する”というサイクル(「哲学する自由」)を楽しめることが賢者の定義であるという、この発想もすごく好き。たしかに、知的好奇心の赴くままに、なんにでも興味をもってしまう人は魅力的だし、それを「他人を害することなく」できているというのも尊敬できる人物像です。

とはいえ、自分もそうありたいものだと思いつつ、そうするためにいちばん必要なのは”心と体の余裕”だよな〜〜とも思ってしまいます……。労働で消耗していては、一生賢者になどなれない。悲しい。

 

「目的への抵抗」

國分功一朗先生の大学での?講義を文字起こししたような体裁の新書です。自由は目的に抵抗する というキーワードが、いまの自分が抱えている問題意識に奇妙なほどに合致して、運命的な出会いを感じてしまった一冊です。

つまり資本は、現状に対して疑問を抱き、何事かに気づき始めた人間を、これまで通りの消費社会の論理に連れ戻そうとするのです。だとすると、すべてを目的に還元する論理、目的をはみ出るものを許さない論理は、消費社会の論理を継続するために、現在、この社会でその支配を広げつつあるのだと言うことができるのではないでしょうか。

不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない。必要を超え出ること、目的をはみ出るものを許さない。あらゆることを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。あらゆる行為はその目的と一致していて、そこからずれることがあってはならない。―――いま僕が描き出そうとしている社会の傾向ないし論理とはこのようなものです。ここでは目的の概念が決定的に重要な役割を果たしていることが分かります。

”目的ありきの手段”を一生正当化していこうとする社会にどう抵抗していくか、というテーマで、哲学者の主張を引きながら解説されています。自分がふんわり考えたり疑問に思ったりするようなことは、だいたいもうすでに考えきっている哲学者がいる現象にまたしてもぶち当たり、若干の羞恥心が芽生えるなどしました。

自分が考えていたのよりだいぶスケールが大きいし、まだあまり噛み砕けてはいないけど、最近の自分が頭を悩ませていた疑問(「なにか[目的]のためになされるなにか[手段]」というときの「のために」は便利に扱われすぎていて、そのワードを持ち出されると急にしんどくなる現象)へのヒントになりました。というかたぶん、もうここにほぼ”答え”に近いものが書かれているんだろうなと思いながらも、主張を完全に理解した!とは言えないし、「じゃあどうするか」というところまで自分なりには落とし込めていない現状です。先は長そう。