Baselog -生活と家計の改善のログ-

家計と生活改善と読書のログ。

日記を書くと楽しい!!

無職になってほぼ毎日、noteで日記を書いています↓

note.com

今後(アマゾン書籍のアフィリエイトを除けば)マネタイズをしていく計画はありませんが、なんかしらんけどめちゃくちゃ楽しく続けられています。

ただ自分の日記をダラダラとネットに上げることが、なぜこんなにも楽しいのか。自分でも不思議だったので、可能性として考えたことをまとめておきたいと思います。

 

 

”バリューを提供”のしがらみに対抗するものとしての日記

まず前提として、現代のインターネット文化では、人の役に立つ有益な情報を発信することが求められがちです。

  • 実用的なハウツー記事

  • トラブルシューティングや問題解決策

  • レビューや比較記事

  • ライフハックや時短テクニック

Googleの検索窓にキーワードを入力してヒットするのは、だいたい↑のような実用的な記事ばかりです。いろんな事情があって「最近はそうでもないよ」という誹りは免れない状態ではありますが、精度はともかく、その傾向自体は今も昔もさほど変わっていないはず。

こうした風潮の背景には、インターネットを活用したビジネスモデルや、効率的なコンテンツ消費を前提とする時代の流れが関係しているように思います。

 

”稼げるライター”の影響

2010年代頃から、ブロガーやライターが「自分のブログをマネタイズする」「ライティングで生計を立てる」といった形で、文章を書くことで収益を得るようになりました。

この流れには、インターネット上での主な収益手段が広告収入であることが大きく影響しています。特に、Google AdSenseやアフィリエイト広告の登場により、ページビューやクリック数がそのまま収益につながる仕組みが広まりました。

こうした収益モデルでは、読者が実際に価値を感じる内容でなければ十分な流入数を得られません。読者になんらかの価値提供ができるものは”バリューがある”と評価されるようになり、そういった価値を最大化することで、PV数やコンバージョン率(収益性の指標みたいなもの)が高まるとされています。

逆説的に、バリューを生まない記事=読まれない、稼げない=価値がない、という構図が出来上がってしまいました。

さらに、一部の成功事例が成功法則として広まり、ブロガーやライターの間でも「役立つコンテンツを作らなければ稼げない」という風潮が強まっていきました。そして、いつからか「ネット上に自分の文章を残すこと」と「それによって収益を得ること」が限りなく近づいてしまい、稼げないのならば書く意味がないという極端な発想に至る声すらあらわれたような気がします。

 

日記というアンチテーゼ

では、そのような”みんなが知りたい情報”を文章にして、読者に価値提供をし、収益を得るのが楽しいか??というと、個人的な感覚ではもうぜんぜん楽しくねぇです。

たとえば「新型iPhoneが発売されたのでレビューをする」というような内容であれば、それはたくさんの人に参考にしてもらえてたくさんの価値を提供できるとは思いますが、その記事書きたいか?と言われると、もうぜんぜん書きたくない。口が悪いですが、AIでええやろ、と思ってしまいます。

その点、日記は誰かのためではなく、自分のために書くものです。役に立たなくてもいいし、まとまっていなくてもいい。そもそもネット上に公開する必要すらありません。むしろ、無価値であることに存在意義があるとすら言えるかもしれません。

日記を書くことは、誰かの役に立ったり、”何者か”になるためではなく、「ただ、書く」「ただ、ある」ための営みです。

 

日記を書く楽しさ

つくづく私は、時間の中を時間とともに流れていくのが不得意だと思う。この現在は明日を引き寄せるために使うべきなのに、現在を現在のためにばかり消費している。

本をつくるにあたって過去の日記を読み返した。「仕事が遅れている」「どうしても書けない」という言い訳がましい言葉が頻繁に目に飛び込んでくる。今の私から見ると、過去の己の悲鳴も他人事のようにしか感じられない。何、ねむたいことを言っているんだと思う。しかし、当時の自分にはその弱音が必要だったのだろう。この閉塞した現在にあえて留まることを、日記というツールは許してくれる。だから私は日記を書き続けてこられたのかもしれない。

今夜も立ち止まり、出口のない現在にぐりぐりと点を打つ。それはいずれ、途切れ途切れで不格好な一本の線になる。私はそうやって時間を進めるしかないようだ。

(「納税、のち、ヘラクレスメス のべつ考える日々」)

 

自分だけの空間で自分の好きなことが書ける

日記を書くことのいちばんの楽しさは、他者の評価や価値観とは離れたところで、自分の好きなことが書けるという点にあります。

普段、文章を書くときは、どうしても”読まれること”を意識してしまいます。SNSならいいねやリプライ、ブログならアクセス数やシェアの数が気になり、無意識のうちに”人からどう見られるか”を考えながら書くことになります。

しかし、日記にはそうした制約がありません。書きたいことを、書きたいように書ける。価値があるかどうか、意味があるかどうか、他人からどんなふうに見られるかといったことを考えず、自分が感じたことをただ書くという作業に集中できます。

SNSで情報を発信することが当たり前になった時代だからこそ、他者の視線を気にせずに書くという行為は、貴重な体験なのかもしれません。

 

ログを残すことは人生のセーブデータを作ること

私は自分の書いた文章を、あとで読み返すことが多いタイプです。書いた内容は覚えていたりぜんぜん覚えていなかったりと色々ですが、本当に思ったうえで書いたことなら、どれだけ昔の記事でも、読み返したときに共感できることが多いです。

とはいえ、なんとなく聞こえがいいからとりあえず書いてみたことや、どこかで聞きかじっただけでよく考えずに並べた言葉もあります。が、そういうものもひとつの黒歴史として残しておくのは悪くないと思います。

もしログとして残っていなければ、かつて自分がそう感じて・考えていたことすら、完全に忘れてしまうかもしれません。書き残しているからこそ、後から振り返ることができる。それも日記のひとつの価値だと思います。日記を書くことは、RPGでいうところのセーブデータを作る行為に近いのかもしれません。

何も記録しなければ、時間はただ過ぎていくだけです。しかし書き残してさえいれば、たとえなんの意味もない文章だったとしても、その感覚や出来事は確かにあったのだと再確認することができます。

 

日常が空洞化することを防げる

日常は、意識しないと驚くほどあっさりと流れていきます。毎日それなりになにかを考えたり感じたりしているはずなのに、時間が経てばすべてを忘れ去って、「今週、なにしてたっけ??」という虚しい気持ちになることがあります。

特に仕事や家事など、やらなければいけないことで毎日手一杯だったりすると、ただ予定をこなしているうちに1週間や1ヶ月があっという間に過ぎてしまうこともあります。私は、まるで日々の出来事が、自分という筒の中をただ素通りしていっているような感覚に何度も陥りました。

日記を書くことは、そうやって流れていく日常に”手ごたえ”や”引っかかり”のようなものを持たせる行為だと思います。記録をつけることで、時間がただ消費されていく感覚をほんのちょっとだけ、防ぐことができます。記録が残ることで、「なんにもしていない……」と思っていた日にも、実はちゃんとなにかを考えたり感じたりしていたことを思い出すことができます。

そういった思い出を積み重ねることで、空虚な日々を少しだけ肯定できるようになる気がしています。

 

なぜ日記を公開するのか

書くことは、一見すると個人的な行為に見えます。特に日記はそうです。誰かに向けたものではなく、ただ自分が思ったことを記録するだけです。

それなのに、なぜか人は、公開しなくてもいいはずの日記を公開したくなることがあります。これは”書く”という行為自体が、即ち他者を意識した営みだからかもしれません。

 

自分だけわかっていればいいなら、そもそも書く必要はない

そもそも、本当に100%純粋に自分のためだけの行いであれば、わざわざ言葉にする必要があるでしょうか。思考は頭の中だけで完結できますし、感覚や感情もその場で流れていって、よほどのインパクトのある出来事でなければ、大部分は忘れてしまいます。にもかかわらず、人はそれを”書く”という形で外に出そうとします。

それは、書くという行為が、”伝える”という意欲に直結しているからではないかと考えます。

書いた瞬間、そこには書き手と読み手の構造が生まれます。たとえそれが未来の自分であっても、書くときの自分とは別の存在として”読む自分”が想定されているのです。

つまり、日記を書くことと日記を公開することは、まったく別の話にみえて、根本の部分ではつながっています。書く時点で、それはすでに(未来の自分を含めた)誰かに向けたものになっているのかもしれません。未来の自分はほとんど他者だからこそ、日記は完全に”自分のためだけの文章”にはなり得ないのだと思います。

 

自分以外の誰かに伝えようと意識することで、思考が深まる

頭の中だけで考えていることは、どれだけ強く念じたことであっても、時間が経てば跡形もなく流れていってしまいます。考えていたはずなのに、気がつけば別のことを考えていて、ついさっきまでの思考の形がはっきりと思い出せないこともあります。

しかし、誰かに伝えることを意識すると、思考は一定の形を持ち始めます。「自分は何を言いたいのか?」「どう説明すれば伝わるのか?」と考えることで、あいまいだった考えが整理され、深まっていきます。

日記を書くときも、完全な独り言として書くより、「未来の自分に向けて」とか「万が一にも誰かが読むかもしれない」という意識があるほうが、まとまったわかりやすい文章に整えたり、考えを掘り下げやすいことがあります。ただ感情を垂れ流すのではなく、「なぜ自分はこう思うのか?」と問い直すことで、考えが明確になり、時にはそこから新しい発見や展開が生まれることもあります。

もちろん、日記は必ずしも誰かに伝える必要はないですし、まとまったわかりやすい文章などにしなくても、まったく問題ありません。でも、ほんの少し言葉として整理するだけで、自分自身が思考を深める手助けになることもあります。そうすることで日記がただの記録以上の意味を持つということも、もしかしたらあり得るのかもしれません。

 

反響を期待しすぎると続かないかも

「たくさんの人に読んでもらい、反響がほしい」という気持ちは、多くの人が感じるものだと思います。やはり、書いたものが読まれ、誰かの心に響くのは嬉しいことですし、その反応が次のエネルギーになることもあります。

しかし、その気持ちが強すぎると、逆に続かなくなってしまうことが多いのではないでしょうか。なぜなら、反響を得るためには、どうしても周囲の反応を気にしながら書くことになるからです。冒頭の”バリュー理論”と同じ構造です。

読者にどう思われるか、評価されるかを意識して書いていると、次第に自分が本当に書きたいことや感じていることからズレてしまいます。最初は純粋な気持ちで書いていたはずなのに、いつの間にか「どうすれば受けるだろう?」「これを読んで誰かが反応してくれるだろうか?」と考えるようになり、そうした思考に支配されてしまうのです。

さらに、反応がなかったときの落胆や、予想外の反応に対する焦りも生じます。少しでも反響がないとモチベーションが下がり、続けることがつらくなることもあります。そうして最初の純粋な気持ちからどんどん離れていき、書くこと自体が義務のように感じられてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

誰も読んでなくても書いたらいい

だからこそ、最初は反響を期待しすぎない方がよいと考えます。まずは、誰かに読んでもらうことよりも、自分が書きたいことをひたすら書くことが重要です。そして、読者がいなくても、自分が書くこと自体に意義や楽しさを感じられるようになることが大切です。

誰が見ていようと見ていなかろうと、また称賛されようと批判されようと、自分の人生経験や思考の上に形作るならば、そう考えたり、そう書くしか仕方のないことというものはあります。

たとえば「今日は早起きができた」とか「今日は昼まで寝てしまった」などと書いたことに対して、周りからなにかを言われたり言われなかったりしたとして、「じゃあ自分が起きた時間を今から変えるか……」ということはできません。厳密には書き変えるということは可能ですが、そんなことをしたところでなんの意味もありません。それが日記というものです。

であれば、自分以外の誰かが読んでいるかとか、どんな反応をもらえるかというのは、そもそも意味のない指標であり、気にしたところで仕方のないことであると言えます。

 

価値がないものを残す

結局のところ、日記を書く楽しさは価値のあるなしでは測れないものだと思います。「役に立つか」「意味があるか」なんて考えなくても、自分にとって書くことが大事なら、それだけで十分な理由になるはずです。

でも、それを貫くのは思った以上に難しいです。すぐに「これって無駄じゃない?」「そんなことして何になるの?」といった雑念が入り込んでくることがあります。特に現代は、”価値”や”生産性”が強調される時代だから、自分が大事にしているものを大事にし続けることは、意識していないとあっという間におろそかになってしまいます。

日記を書く作業は、そういった”自分が大事だと思うこと”の確認作業であり、書くことでしか達成できない営みだと思います。