年度末ですね。
仕事が忙しくなってくると、夜の自由時間に力尽きたゾンビのようになって、ひたすら横になるしかないのをなんとかしたいです。
余暇と休息のちがい
私たちの考える余暇は、広く理解されている意味での余暇とはほとんど共通点がない。報酬をもらってする仕事も、お金が主目的でなく、それをしたいからするのであれば、私たちの考える余暇活動に当たる。
その一方で、世間一般で言う「レジャー」の多くは、私たちの考える余暇活動ではない。痩せるためにスカッシュをするといった具合に手段として行われているか、でなければあまりに受け身的で活動とは言いがたい(テレビを見るとか酔っぱらうといったことは、人間のやることはすべて活動だと解釈した場合に活動と言えるにすぎない。自主性もスキルもいらないので、余暇活動と言うよりは「休息」というほうが当たっている)。とはいえ、真剣さや努力が余暇の条件だというわけではない。大事なのは、外から強制されてやるのではない、ということである。この意味では、マルクスの言う「疎外されない労働」が近い。マルクスはこれを「生活を自由に表現すること、ひいては生活を楽しむこと」と定義している。
(※最近やっと読み終わりました。すごくいい本)
この本によれば、今まで私が余暇だと思って過ごしていた夜の時間は、余暇ではなくてただの”休息”でした。
休息ではなく余暇の時間を増やしたい
よくよく考えてみれば、今現在、休息の時間は充分にあるはずです。
仕事が終わって帰宅するのがだいたい夕方18時。ごはんを食べて後片付けをし、お風呂に入ってだいたい20時。0時に寝るとしても、1日最低3~4時間は自由な時間があるはずなのです。
なのになぜ「時間が足りない」「やりたいことがなにもできない」と感じるのかというと、まあ間違いなくスマホ片手に横になって、TwitterやYouTubeに入り浸っているからでしょう。受動的な娯楽に時間を費やしていて本来やりたいことに着手できていない状態です。
本当にやりたいことをやるための環境を作る
私にとってはTwitterもYouTubeもどちらも大好きな空間ですが、それ以外にもやりたいことは色々とあるはずなのです。それは、
- 文章を書くこと
- 絵を描くこと
- 積み本や積みゲームを消化すること
……などの趣味に関わることなのですが、仕事から帰ってきてひと通りの家事などを終えると、ついベッドに横になってしまってスマホをポチポチしてしまいがち。
これまでは体力がないせいで家に帰ってもダラダラするしかできないのかなどと考えてもいましたが、自転車通勤をして体力づくり&気分転換をしてもなお、思うように余暇時間を延ばすことができませんでした。
そこで、重要なのは体力ではなくて作業しやすい環境づくりなのではないかと仮説をたて、最近はゲーミングチェアを導入したりと、作業エリアの環境改善に取り組んでいます。
仕事してYouTube見るだけの毎日はイヤすぎる
毎日朝7時に起きて9時から17時まで仕事をし、家に帰ってごはんを食べて横になってスマホいじって寝るだけという生活は、気楽そのものではあるし、世の中には残業や家事・育児でゆっくり横になる時間すらないという人もいます。
それでも私は、余暇のない生活では病むことがわかりきっているので、もうちょっと自分の生活を顧みて、立て直しを図りたいなと思っています。
下手でもお金が稼げなくてもいいのでなにか書きたいし、本もたくさん読みたいし、そのための時間と環境は死ぬ気で確保したいという気持ちが強くあります。
人生には無駄が必要、というか「無駄>>>必要」
余暇が基本的価値の一つである理由は、はっきりしている。余暇のない人生、すなわちすべてのことが他のなにかのためになされる人生は空しいからだ。そのような人生はつねに準備のために費やされる人生であり、現実を生きることがない。ほんとうの意味で世界を見つめ広い視野に立って熟考できるのは、必要のくびきから解放されたときだけであり、したがって余暇は、より深い思索、よりゆたかな文化の源泉だと言える(余暇を意味する古代ギリシャ語スコレー<schole>がスクールの語源であることも、このことを暗示している)。
働いてお金を稼ぐのは、お金が生活に必要不可欠なものだから。毎日元気に働くためにごはんを食べたり睡眠をとったり、仕事の疲れを癒すために休息をとるのは、それが労働に必要なものだからです。
であれば、趣味の時間、つまり文章や絵を書く・本を読む・ゲームをするなどの時間はある意味では不必要なもの、無駄な時間と言えます。
では1日のうちのすべての時間を”必要”のために費やして、貯金や資産を最大化することにつぎ込んだとして、最終的になにが残るかというと、使い切れないほどの資産を残したまま死ぬだけです。
私はそういった人生には魅力を感じないし、つまらないなと感じてしまいます。
人生における”お金を稼いでいない時間”を最大化する
余暇の時間に文章を書いてお金を稼げたら……と思ったこともないわけではないですが、今は余暇の時間にお金を稼ぐことを考えるのはやめよう!と考えを改めています。
お金の稼げる文章を書くことに向いていない、というのが第一にはありますが、なにより、そうでないと自分の本当に書きたいことが書けないし、読みたいものも読めなくなってしまう気がしています。
もう1年以上も沼に浸かり続けている趣味であるTPRGなども、誰からも一銭ももらっていないにもかかわらずあまりにも楽しいので笑、自分には”お金を稼いでいない時間”のほうが圧倒的に大事で、お金を稼いでいない時間をできるだけ最大化したいのだと思います。
つまり、労働のための休息ではなく、労働やお金や”必要のくびき”とはまったく無関係な余暇の時間を延ばすことで、自分の人生を好きになれるのではないかと思うのです。
お金が嫌いなわけではないけれど
低コストな生活をしている人の中には「お金そのものがあまり好きではない」というタイプの人がいますが、私はお金を稼ぐことはむしろ大好きなほうです。なぜならお金がたくさんあれば永遠に無職でいられるから……。
低コスト生活をおくるのも、余剰金をひたすら貯め込みまくっているのも、すべては”お金を稼いでいない時間”を1分1秒でも延ばすためです。
かといって、未来の幸せのために現在の生活を犠牲にするつもりはなく、もっと時間の使い方をうまいことやって、余暇を増やしたいと考えています。あるいは睡眠時間などを削ったらいいのかもしれませんが、それで寿命が縮んだら元も子もないので、健康第一で試行錯誤していく所存です。