今年の上半期に読んでよかった本たちです。
- 「人生の短さについて 他2篇」セネカ
- 「断片的なものの社会学」岸 政彦
- 「キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々」品田 遊
- 「出セイカツ記:衣食住という不安からの逃避行」ワクサカ ソウヘイ
- 読了した本リスト
「人生の短さについて 他2篇」セネカ
人間の誤りを乗り越えた偉大な人物は、自分の時間から、なにひとつ取り去られることを許さない。それゆえ、彼の人生はきわめて長いのである。なぜなら、彼は、自分の自由になる時間が長かろうが短かろうが、それをすべて自分のためだけに使うからだ。彼の時間が使われずに眠っていることなどなかったし、他人に支配されることもなかった。なぜなら、彼は、自分の時間と交換できるほど価値のあるものなど、なにひとつ見出さなかったからだ。彼は、とてもけちな、自分の時間の守り手なのである。だから、彼には十分な時間があったわけだ。これに対して、あの多忙な人たちに時間がないのは当然のことだ――人々の群れが、彼らの人生から、たくさんの時間を奪い去っていったのだから。
なにをきっかけにこの本を手に取ったのかは忘れましたが、ここ数年ずっと抱いていた違和感の、ど真ん中に刺さった1冊です。
毎日毎日フルタイムで働いていて、なんとなくずっと「時間が足りないな〜」と思っていて、でも働いてるんだし日銭を稼がなければどうしようもないし、大人というものはみんなこんなもんなんだろうなと思っていました。それでもどことなく息苦しさも感じていて、なぜ苦しいかというと、「他人のために時間を使っているからだ」というセネカの指摘は、自分にとってはある意味救いでした。
仕事にしろ家事にしろ、他人のために時間を使うのは苦しいけど、「苦しい」と感じたり、ましてや言葉にして表明してはいけない気がしませんか。けれど、セネカに言わせてみれば、それは苦しくて当たり前の現象なのです。そして(ここまではセネカは言及していないので、あくまでも私が個人的に感じとったことですが)、”他人”とは、今の自分が奉仕する対象一般を指していて、これには仕事や家族、ひいては未来の自分自身も含んでいると思うのです。
仕事で奉仕する人(上司やお客)も、養わなければならない家族も、将来の自分自身のために稼いでいる貯金ですらも、今の自分から時間を奪っていく存在でしかありません。将来の自分はもはや他人ですし、いわゆる”老後の蓄え”のために今の自分の時間を奪われているせいで息苦しいんじゃないか??と思い返してみると、心当たりがありすぎます。
とにかく本を読め
セネカは、もっと自分のために時間を使ったほうがいい、具体的には勉強したほうがいいと指摘しています。
すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。というのも、そのような人は、自分の時間を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、すべての時代を付け加えることができるからだ。彼が生まれる以前に過ぎ去っていったあらゆる年月が、彼の年月に付け加えられるのである。われわれがひどい恩知らずでないというなら、こう考えるべきだ――人々に尊敬される諸学派を作り上げた高名な創設者たちは、われわれのために生まれてくれた。そして、われわれのために、生き方のお手本を用意してくれたのだと。
自然は、われわれに、すべての時代と交流することを許してくれる。ならば、われわれは、この短く儚い時間のうつろいから離れよう。そして、全霊をかたむけて、過去という時間に向き合うのだ。過去は無限で永遠であり、われわれよりも優れた人たちと過ごすことのできる時間なのだから。
以前よりも本を読むようになって思うことは、「自分の時代に、すべての時代を付け加えることができる」というのは、読書がもたらしてくれるいちばんの効用なのではないかということです。
あまりにも自明の事実ですが、本はその本を書いた人が人生をかけて築いた価値観が詰まっています。ありふれた言い方をするなら「巨人の肩に乗る」というやつです。
自分の人生を一周するだけでは絶対に知ることができなかった知識を、たった1冊の本がいとも簡単に与えてくれます。もはや人生を周回プレイできるのと同じで、自分ひとり分の見識だけで人生を攻略していくよりも、はるかにイージーになるのは間違いありません。
だいぶ余談ですが、これは私が最近ハマっているTRPGも同じ特性を持っているような気がします。自分のものではない人生をロールプレイして、擬似体験するのは楽しいことです。これはまったくネガティブな意味ではなく、自分の人生に他人の人生を付与することで、自分ひとり分の人生だけを見つめ続けて悲観的になったり、視野狭窄に陥るのを防いでくれる効果があるように思います。
本をたくさん読めば、”いつ最後の日が訪れ”てもよくなる
その人生からは、なにひとつ奪い取られない。なにひとつ散り散りに分散しない。なにひとつ運命の手に引き渡されない。なにひとつ不注意によって失われない。なにひとつ浪費によって減らない。なにひとつ余計なものはない。いってみれば、人生全体が、もうけになるのだ。
それゆえ、そのような人生は、たとえどんなに短くとも、十分に満ち足りている。だからこそ、賢者は、いつ最後の日が訪れようとも、ためらうことなく、たしかな足どりで、死に向かっていくことであろう。
あまりうまく言葉にできないのですが、この一節を読んで、哲学をはじめとしていろいろなことを勉強して、知って、先人たちのいろいろな考えに触れることができれば、「死ぬときはひとり」ではなくなる気がしました。
人生の終わりには、家族や友人に見守られて死ぬのが最高であるように語られがちだし、それが間違っているとは言いきれませんが、どうやらセネカはそうは考えていなかったようです。そして、死ぬことについて考えたとき、どちらかというとセネカのこの教えのほうが自分の価値観にフィットしました。
たとえ死ぬ時にそばに誰一人いなくなったとしても、それまでに出会ってきた先人の教えがそばにいてくれて、一緒に死んでくれるような感覚がして、変な話ですが少しだけ、死ぬのが怖くなくなりました。このあたりは今後もっと熟考して、自分なりに言語化していきたいテーマだなと思っています。勉強はタナトフォビアの治療薬になる説。
「断片的なものの社会学」岸 政彦
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— アコヲ@Baselog (@baselog_030) 2023年2月1日
オモコロのこの記事↑で紹介されていて「原宿さんのおすすめならおもしろいに違いない……」と思って買ったら、案の定おもしろかった本です。
社会学者の著者がインタビューを通して対象者の人生を観察するような体裁をとっており、取材対象者がどんな人生を送っていたとしても、それを一般化することはしないし、できないことが自明のこととして描かれています。
人間それぞれ、ひとりひとりが社会の一側面を構成していて、社会はそういった全く違う人間が寄り集まって構成している、とんでもなく大きな多面体なのだなとしみじみ感じ入ることができます。そのうちどの面がいいとか悪いとかを判定することは誰にもできません。いわゆる”普通の人生”とか”普通の人間”といったものは存在しないし、定義しようがないのだと、再確認させてくれるような1冊です。
本は自分と外界を繋ぐもの
実際に、どこかに移動しなくても、「出口」を見つけることができる。誰にでも、思わぬところに「外にむかって開いている窓」があるのだ。私の場合は本だった。同じようなひとは多いだろう。
四角い紙の本は、それがそのまま、外の世界にむかって開いている四角い窓だ。だからみんな、本さえ読めば、実際には自分の家や街しか知らなくても、ここではないどこかに「外」というものがあって、私たちは自由に扉を開けてどこにでも行くことができるのだ、という感覚を得ることができる。そして私たちは、時がくれば本当に窓や扉を開けて、自分の好きなところに出かけていくのである。
本を読むことで得られるものについて、セネカが「自分の時代に、すべての時代を付け加えることができる」と言っているのに対して、この著者は「外にむかって開いている窓」だと言っています。
本は、閉塞しがちな環境や思考に穴をあけてくれるものであり、自分ひとりの発想では到底たどり着けない多角的な視点を授けてくれるものです。どの人生がいい・悪いと断言することはできないように、どの見方がいいも悪いもなく、ただそこに存在している。それになんらかの感想や感傷を得ることができたとして、評価を下すのは無意味なことなのだと考えさせられます。
思えば、著者にとっての外界との接点が本だったように、私にとってはインターネットがそうだった気がします。ネットで得た知識や価値観、繋がった友人たちがいなければ自分は全く違う人間になっていただろうし、なんなら生きづらさに負けて、もはやこの世にいなかった可能性すらあるなと思うのです。本を読むのが好きになったのも完全にネットきっかけだし、現代日本に生まれて本当に良かったです。
「キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々」品田 遊
図書館で借りたのですが「これは絶対に手元に置いておきたい!!」と思い、全て読み切らないうちにポチった本。オモコロファンなのに著者の文章を読むのは正直はじめてだったのですが、世の中の見方の、角度のようなものがあまりにも居心地がよく、一瞬でファンになりました(とはいえ小説を読むのは苦手なので、これ以外の著書にはまだ手がつけられていませんが)
世界に対する違和感を、理性的かつ慎重に言語化していく姿勢にものすごく共感します。みんなが当たり前のように受け入れていることに対するささやかな反発や、世界に対する馴染めなさなどなどが訥々と語られています。しかし、実は、この違和感や馴染めなさというものは、度合いは違うにしろ誰もが抱えていて、苦しんだり気付かないふりをしたり迎合したりしているものなのではないかとも思います。
自分の文章を書き残す意義
子どもの頃から「そういうことが言いたいんじゃなくて……」という言葉を何度も飲み込んできた。「わかる」と言ってくれる人ほど敵だった。思ったことを言うのは難しい。頭の中のちょっとしたイメージや違和感を形にするために、多くの言葉を尽くさなければならない。言ったことを人に伝えるのはもっと難しい。言葉はあちこちに張り巡らされた既成の文脈に巻き取られて一体化してしまう。この世界は恐ろしいほどなめらかに流れている。だから、私は一日の終わりに「淀み」を残す時間を設けた。取るに足らないこと。まとまっていない思考。それらをアトランダムに浮かべていった。だからなに、と言われても仕方がない。
そうやって、少し自由になりたかったんです。
ふんわりと抱いていた違和感を的確に言語化してくれるのでずっと「わかる~~」となるのですが、しかし「わかる〜〜」と声を大にして言いたくはない。それは著者の言うとおりなんだかすごく野暮な行為だし、まるで著者が熟考してやっと言葉にしたことに、平然とタダ乗りしてはしゃいでいるような気になるので。なので、部屋でひとりひたすら頷きまくって、そんな時間が最高に楽しいし癒されるのです。
この本はおそらく、他人よりも自分に共感されたくて書かれたもので(日記なのだからそれはそうだろうというかんじですが)、でも、”自分の文章”というものは、公開すれば自分以外の誰かに届いたり届かなかったり、響いたり響かなかったりするものです。かといって自分以外の誰かにドンピシャに刺さらなければ公開する意味がないというわけではなく、まったく自分のあずかり知らないところに行き着いたり、そこからなにかが発展したりしなかったりもする。その程度の話だし、それで終わりでいいのだと思います。
読む前後で、日記や文章を書くのが格段に楽しくなった一冊です。
「出セイカツ記:衣食住という不安からの逃避行」ワクサカ ソウヘイ
そうだ、やっと見つけた。私をずっと飲んできた不安の出所を。あいつらは、「真っ当な衣食住」という呪いの穴から現れ出ているのだ。
衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。
この本を読んでいる間ずっと、「この人は現代日本のヘンリー・D・ソローだ……」と感動を禁じ得ませんでした。「ウォールデン 森の生活」で私がいちばん好きなフレーズである、
「生きるとは、私だけの実験です。」
を、あまりにも体現しています。
衣食住のことを考えているとだんだん気が滅入ってくるし、「衣食住をちゃんとする」を諦めた途端、生活が急速に創意工夫に富んだものになるのもすごくわかって、勝手に同志を見つけたような気持ちになりました。
ちなみにソローは家はセルフビルドしろと言っていたし、食べるものは自給自足すればいいし一日三食たべる必要もないと言っていたし、服なんて暖かさを保てればそれ以上のことを望む必要があるか?いやない(意訳)、と言っています。
うまく体の熱を保てた人は、次の段階として何を望むでしょうか?もっと温かさが欲しいと望む人はいないでしょう。温かさを保つのに、もっと美味な食物をもっとたくさん食べたいとか、もっと素敵で大きな家が欲しいとか、もっと美しい服をもっと重ねてきたいとか、もっとよく燃えるストーブをもっと炊きたいとは思わないでしょう。”生活に必須なもの”があれば、それ以上手に入れても、余りものの山を抱えて暮らすだけで、馬鹿げています。何か別の生活をしたくなります。
悪戦苦闘している様子はどこかコミカルで愛しい
やっと気がついた。私は、スッポン釣りで副収入を得ている自分を想像するだけで、もうすでに、救われていたのだ。加えて、カラスを駆除することで得られる豊かな未来を夢想するだけで、すでに目の前の暗雲を晴らしていたのだ。
そんな我々に残された、唯一の救い。それは、夢想だ。
なんということだろう、夢想とは無料で嗜むことのできるコンテンツなのである。
私たちは「いつかきっと楽になれる」と、夢想することができる。 逃避行の旅へと連れ出してくれる王子様を、想像することができる。
私の場合、スッポンやカラスこそが、その王子様であったのだ。
大丈夫、生きていける。 この世には、想像力がある。どんなに現実に虐げられようとも、想像力さえあれば、誰であっても生きていける。
不安を抱えながらも、生きていけるのだ。
エモい締めのなかで異彩を放っている「スッポンやカラス」のくだりは、新たな収入源を構築しようと作者が試みた実体験を指しており、終始おもしろすぎるのでここでは割愛します。是非本を買って読んでほしいところ。
”自分の理想とする生活”を想像するだけでだいぶ救われるというのは、私も実感としてあります。もしかしたら自分も、「ボロ空き家を買って〜セルフリノベして〜家賃を払わない生活達成!生活費3万!」なんて夢を語っているうちがいちばん楽しいのかもしれない……なんてことを思うなどしました。
私も、正気を保ちながら生きていくことに対して、想像力が与えてくれるパワーの心強さには、これまで何度も助けられてきた自覚があります。なんらかの要因でそれが発揮できない時の苦しさや先の見えない不安感も、身をもって思い知ったこともあるつもりです。
自分の生活についてああでもないこうでもないと頭をひねらせ、行動に移し、失敗したり成功したりしながら、「いつかきっと楽になれる」と信じて、少しずつでも毎日を楽しくしようと試行錯誤を繰り返す。これが、ソローのいう”私だけの実験”であり、著者のいう”夢想”や”想像力”なのだと思います。
読了した本リスト
2023年6月30日までに読了した本の記録です。
- 21世紀の啓蒙 上: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩
- アメリカの思想と文学
- キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々
- ネット右翼になった父
- ヤバい経済学
- 映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形
- 言語オタクが友だちに700日間語り続けて引きずり込んだ言語沼
- 出セイカツ記 衣食住という不安からの逃避行
- 人生の短さについて 他2篇
- 対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉
- 断片的なものの社会学
- 独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法
- ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観
- 実力も運のうち 能力主義は正義か?
- 積読こそが完全な読書術である
- 再読だけが創造的な読書術である
- 言語が違えば、世界も違って見えるわけ
- ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論