2023年の下半期に読んでよかった本たちです。
上半期はこちら↓
- アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?これからの経済と女性の話
- 労働なき世界: 労働だけが罪であり、余暇だけが世界を救う
- 科学者たちが語る食欲
- モンテーニュ 人生を旅するための7章
- 知的生産の技術
- 後悔の経済学 世界を変えた苦い友情
- サボる哲学 労働の未来から逃散せよ
- ダンジョン飯
- 2023年に読んだ本一覧
アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?これからの経済と女性の話
アダム・スミスは「酒屋もパン屋も人を喜ばせるためではなく利己心から働いている」と説きながらも、実際に彼の毎日の食事を作っていたのは母親でした。アダム・スミスの母親をはじめとして、そのような社会で活躍する男性のケアに回っている立場の人々は、利己心から働いているわけではなく、愛情によって働いていたはず。経済の外側に弾き出された”ケアをする人々”が、経済の世界からは透明化されてきたこと、そして、愛情や”人を喜ばせたい”という気持ちを原動力にしているにもかかわらずそれを軽視する、資本主義社会の限界について指摘している一冊です。
テーマがテーマなだけにジェンダーギャップやその問題点について多くのページが割かれて解説されているものの、単にそれだけというわけではなくて、経済に関する初歩的な知識も学べるようになっています。
資本主義とかもうええて感はずっとある
経済学者はいつでも同じトリックで人をごまかす。都合のいい場所を見つけては完全な社会的排除と果てしない大量消費の夢の国をつくり、貧困や環境破壊は人目につかない場所へ廃棄する。恵まれた人間だけが暮らすパラレルワールド。株式市場は上がり、また下がる。国々が通貨を切り下げ、為替市場がざわつく。市場の動きはひとつ残らずモニタリングされている。ぼろぼろの身なりの人はいつだって存在するけれど、選好を調整すれば見なくてすむ。未来など知らない。目の前の欲望を見るので精いっぱいだ。歴史は終わり、個人の自由がやってきたのだ。
これのほかに、道はない。
公正、平等、ケア、環境、信頼、心身の健康それらは経済に寄与する価値ではなく、経済のお荷物にされてしまった。
資本主義について考えるとき、そっちがその気ならこっちにも考えがあるでという気になるし、もうそういったものはそっちだけで勝手にやってくれ〜〜〜となる気持ちも、個人的にはものすごくよくわかります。
もちろん私たちは、その資本主義社会によって発展してきたテクノロジーその他諸々の恩恵もたっぷり受けて育ってきた世代だから、なにを偉そうなことをと言われるかもしれません。それでも、資本主義とか経済成長が足蹴にしてきたものの存在について考えると、どうしても弱い立場のほうに感情移入してしまうのは事実。なぜなら現在の自分がワープアで貧乏人であり非正規雇用であり圧倒的に搾取される側の人間だから……。
じゃあどうしたらいいのかというところまで考えが及ばずに、政治にも経済活動にも興味がわかないまま、資本主義の底辺をさまよいつつもなんとか”正気で生きていく方法”を模索していくしかない。そしてその答えはおそらく、資本主義とか経済成長などの周辺にはないというふんわりとした予感だけがあります。「公正、平等、ケア、環境、信頼、心身の健康それらは経済に寄与する価値ではなく、経済のお荷物」なのだとしたら、もはやそんな社会は願い下げだという気持ちしかありません。
労働なき世界: 労働だけが罪であり、余暇だけが世界を救う
ともだちが読んでいた本その①。この本が面白すぎて著者のnoteもフォローして毎日読んでいます。
「労働を捨て、余暇を充実させ、自由に生きていく」と、言葉にすればシンプルですが、現代社会においてそれを実現することの、なんと困難なことか。しかし、その困難に立ち向かい、個々人がそれぞれの幸せについてちゃんと考えて、追求していくことは、本当はとても楽しいことのはず。
そんなようなことをずっと考えさせられ、もう全ページ同意しかねない勢いであっという間に読み切ってしまいました。お金のために漫然と働くことが嫌いな人は絶対に読んだほうがいいです。
労働に取り憑かれていながらでも余暇は楽しめる
考え始めればキリがない。捨てられるための40%の食糧のために、どれだけの労働が、どれだけの化石燃料や資源、命が無駄になっているのか。食糧だけに限った話ではない。アパレル業界をはじめ、ありとあらゆる業界がモノを作りすぎて捨てている。
システムを変えるにはどうすればいいのか?政治家に火炎瓶を投げつけたり、パイプラインを爆破したり、山奥にコミュニティを作ったり、いろんなやり方があるだろう。だが、私がまず取り組みたいと思っているのは、心持ちの変革である。無駄な労働で疲弊し、地球を破壊するのを止めるために、まずは「余暇を追求すること」を至上命題に掲げるべきだと考えているのだ。
とはいえ、私は住宅ローンを抱え、2人の子どもを持ち、一般企業に勤める労働者だ。育休を取ったり、勤務時間の削減を図ったりして余暇を追求しているものの、いまだに労働に囚われている身なのだ。この文章を書いている間は、それを忘れられる。ギターを弾いているとき、家庭菜園に勤しんでいるとき、PS5をプレイしているとき、ピザを焼いているときもそうだ。余暇は私を自由にしてくれる。そして楽しい。ディストピアに生きていても。労働に取り憑かれていながらでも余暇は楽しめる。
ひとまずはそれでいい。 すべては余暇の神の戯れのままに。
労働に取り憑かれていながらでも余暇は楽しめる。これが、前述した"資本主義の底辺をさまよいながらも、個人レベルでできること"の、最適解なのではと思わされる一文です。
労働を完全にゼロにすることは不可能だとしても、労働と余暇を同時進行させて楽しむこと、そして少しずつ余暇のウェイトを増やしていくことは、おそらく誰にでもできます。仮にベーシックインカムが日本で実現したとしたら、労働をゼロにしながら、個々人が「楽しい」と思うことだけで人生を構成することすらできてしまいます。
そもそも労働が無理ゲーすぎる
それにしても、筆者はこの問題意識を持ちながら、お子さんもいてローンもあって、その辛苦は計り知れないなと思ってしまいました。
ローンを組んだり子どもを持ったが最後、「なんか疲れたから2〜3年くらい旅行とかしつつじっくり休みたいな」とか、「週休5日で必要最低限だけ働きながら生きていきたいな」といったことはできなくなってしまいます。というか、そもそも”正社員として週5日×40年間働く”以外の道がほぼ閉ざされます。急に逃走不可能なボス戦が始まるようなもので、あまりにも余白がなさすぎる。そして、世の中そうまでして子どもが欲しい人ばかりかというとそうでもないから、日本は少子化の一途を辿っているわけで……。
子どもはまだしも、そんなに”35年ローンで買う家”が、日本国民全員に必要なのか??世の中には空き家があふれかえっているのに???といつものループに突入。つくづく資本主義社会に向いていないけれど、著者のように同じような悩みや問題意識を抱えている人がいて、その考えを本にして布教活動に勤しんでおられるというのは、なんとも心強いものです。
科学者たちが語る食欲
ここ数年でめちゃくちゃ売れた(らしい)ポピュラーサイエンス健康本。「食欲人」というタイトルの新装版?が出ています。
この気づきが、本書の重要な洞察の1つとなり、またそれ以降の私たちの研究の指針となった。すなわち、ほとんどの動物がもつ強力なタンパク質欲が、脂肪や炭水化物などのほかの栄養素の過剰または過少摂食を引き起こし得る、という発見である。タンパク質欲が満たされなければ、動物はそのまま食べ続ける。いったん十分なタンパク質が得られれば、摂食を促していた食欲は止まる。
「人は一定のタンパク質を摂取するまで食べ続ける」という新説について解説している本、と聞いて読み、それも大変に興味深かったのです。が、それ以上に、後半のほうで多くのページを割かれている「資本主義的社会が”食”に与えている悪影響」についての主張は、これまで多くの専門家が同じようなことを訴えていたとは思うのですが、前半部分の主張が強固なだけ、より説得力をもって響きます。
栄養の危機に対する責任が最も重いのは、食欲ではなく利益欲
少々うがった見方をすれば、超加工食品のタンパク質比率を下げ、かつ食べられる量を増やすために食物繊維を除去するのは、売上を伸ばす巧妙な戦略だということもできる。
加工食品のメーカーがなぜタンパク質をケチり、炭水化物と脂肪を大盤振る舞いしようとするのかは明らかだ。それによって、製造原価を抑えられるからだ。
そのうえ今見たように、消費者の食欲を操作して過食させることまでできるという、おまけまでついてくる。
タンパク質欲は、世界的な肥満の蔓延を強力に推進する役割を担っている。しかし、タンパク質欲よりもさらに強力な欲、私たちの種に特有の欲がある。そしてすべての欲の中で、栄養の危機に対する責任が最も重いのは、この欲である。
それは「利益」に対する欲だ。
加工品やスナック菓子など、新商品が発売されるとつい手を出したくなってしまうタイプの食べ物は、身体に悪いとわかっていながらついつい手が伸びてしまうものです。逆に、食物繊維がたっぷり含まれていて身体に良い(とされる)野菜や、良質なたんぱく質が摂取できる魚などを、センセーショナルに宣伝しながら購買意欲をあおっているところはめったに見かけません(たまに○○に△△な健康効果が発見されました!」など喧伝されることはありますが)
それは人間が食欲によって、あるいは”健康になりたい気持ち”から食べているのではなく、「あのCMで見たあまいお菓子やしょっぱい加工品が食べたい!」と思う気持ちによって食べているから起こってしまう事態だといえます。
”健康によくない食べ物”に慣れきった消費者は、当然のように健康にいい食べ物などは求めていません。経済的な成長を余儀なくされたメーカーや広告代理店やスーパーマーケットなどの企業は”健康によくない食べ物”を作りまくり、宣伝しまくり、売りまくって、その回転数によって資本主義社会は成り立っています。資本主義批判に戻ってきてしまった。最終的に著者のメッセージは要するに「野菜食べろ」という至極真っ当な主張に落ち着くので、比較的安心して読める健康本だと思います。
モンテーニュ 人生を旅するための7章
2023年上半期に読んだ本でいちばんよかったセネカの流れで、セネカを引きまくっていることで有名なモンテーニュの「エセー」にも興味がわきました。あと同じく上半期に読んだ本で二番目ぐらいによかった「キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々」の影響で日記本も読みたい欲求もあり、とりあえず入門書としてよさそうな新書を選びました。
人間はだれもが、自分を貸し出している。本人の能力が本人のためではなく、服従している人のためになっている。つまり、本人ではなくて、借家人がわが家同然にくつろいでいるのだ。こうした一般的な風潮が、わたしには気に入らない。人間は自分の精神の自由を節約して使って、正当な場合でなければ、これを抵当に入れてはならない。
この辺りはやはりセネカの影響を受けているように見受けられます。「借家人がわが家同然にくつろいでいる」、「人間は自分の精神の自由を節約して使って、正当な場合でなければ、これを抵当に入れてはならない。」などという表現は、セネカの「他人に自分の時間を奪われてはいけない」という教えから学んだことなのだろうなと思わせながらも、モンテーニュのユニークな表現が光っていてかなり好きです。
書物がどれほどわが人生の救いになっているのか
書物との交わりは、わたしの人生航路において、いつでも脇に控えていて、どこにでも付いてきてくれる。老年にあっても、孤独にあっても、わたしを慰めてくれる。なんともやるせない徒然の日々の重苦しさを取り除いてくれるし、うんざりする仲間からだって、いつでも解放してくれる。……「もうじき読む」とか、「あした読もう」「気が向いたら読もう」などといっているうちに、時が過ぎ去っていくのだけれど、別にそれで気を悪くしたりしない。書物が自分のかたわらにあって、好きなときに楽しみを与えてくれるのだと考えたり、あるいは、書物がどれほどわが人生の救いになっているのかを認識したりすることで、どれほどわたしの心が安らぎ、落ち着くのか、とても言葉では言い表せないほどだ。これこそは、わが人生という旅路で見出した、最高の備えにほかならない。
「書物が自分のかたわらにあって、好きなときに楽しみを与えてくれるのだと考えたり、あるいは、書物がどれほどわが人生の救いになっているのかを認識したりすることで、どれほどわたしの心が安らぎ、落ち着くのか、とても言葉では言い表せないほどだ。」は一言一句そうで、私は本をちゃんと読むようになって以降あきらかにメンタルが落ち着いています。
たぶん、どんな本を年間何冊読んでいるかとか、内容がちゃんと頭に入っているかとかそういうことは全く関係なく、ただ本を読むだけで、あるいは「読みたい本を積んでいる」だけで得られる癒しというものがあるのだと思います。「最高の備え」という表現もいいですね。
「エセー」は2024年中に原著をちゃんと読みたいと思います。一旦、図書館に読みやすい訳者の本を探しに行きます。
知的生産の技術
ともだちが読んでいた本その②。昭和40年代出版の、知識や情報の整理術に関する本です。
情報収集の仕方や、集めた情報をどのようにデータベース化するかなど、現代でも個々人がなんとなく方法論を模索してなんとなくそれぞれの最適解を見出しているようなノウハウについて、もっと体系化して共有していくべきであるという著者の主張には同感します。とはいえ、そういった方法論を自分なりに探し、カスタマイズする過程そのものも実に楽しいものであって、著者自身もそういった営みを楽しんでいるのが感じられ、全編通して好感が持てる一冊になっています。
創造的読書をしたい(気持ちはある)
読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。(中略)
本の著者に対しては、ややすまないような気もするが、こういうやりかたは、いわば本をダシにして、自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆくというやりかたである。もっぱら読書のたのしみを享楽するのもいいが、それはいわば消費的読書である。それに対して、こちらは生産的読書法ということはできないだろうか。あるいは、また、このやりかたなら、読書はひとつの創造的行為となる。著者との関係でいえば、追随的読書あるいは批判的読書に対して、これは創造的読書とよんではいけないだろうか。
本はただ読むだけではなくて、それを「ダシにして」自分の考えも派生させて、それを育てていかなければならない……という主張にも、(自分が実践できているかどうかは別として)完全同意です。
ただ本を読んでその内容をまる覚えできて自分の血肉になっているならそれはそれでよいのかもしれないのですが、個人的には、読んだことにはなんらか”自分の感想”がくっついていないと、本の内容そのものをきれいさっぱり忘れ去ってしまうことが多いような気がします。それが納得や好感といった良感情であれ、憤りや反感といった悪感情であれ、なんらかの自分の意見や感情が付随することではじめて”読書体験”として成立します。
そしてそういった自分の感想も書き留めておかなければすぐに忘れてしまうものなので、できるだけ読書メモをつけたり、ブログに感想を書き残したりといったことをしたいのですが、「もっとたくさんインプットのほうをしたい」という気持ちから、そういったアウトプットがおろそかになることも多くて反省しています……。あと、感想を持つにしてももっとマシなことが考えられるようになりたいなぁと毎回のように思うのですが、まあ思うようにはいきませんね(他人事)
後悔の経済学 世界を変えた苦い友情
「ファスト&スロー」はまだ上巻しか読めていませんが、序盤からトヴェルスキーの名前は随所にでてきていて、本当に仲が良く、まるで遊んでいるみたいに研究をしていたんだろうなということがうかがい知れるものでした。この「後悔の経済学」は、作家であるルイスが、「ファスト&スロー」の著者ダニエル・カーネマンと、共同研究者だったエイモス・トヴェルスキーの生い立ちや出会い、共同研究を経て別れに至るまでについて、周囲の人々の取材をもとに描いているノンフィクション作品です。
中盤以降は期待していたカーネマンとトヴェルスキーの仲良しエピソードのオンパレードでニコニコしながら読めましたが、だからこそ、
「ぼくらは友だちだ。きみがどう思っていようと」
でバカ泣きする羽目になりました。友情ヤクザを殺す本。
二人きりの研究室で成立していた共同研究
大成功を勝ち取る瞬間が近づいているときでも、二人の協力は不思議な形のプライベートな作業であり、脈絡のないギャンブルのままだった。「わたしたちがイスラエルにいる限り、世間にどう思われているかという考えは浮かばなかった」とダニエルは言う。「世界から切り離されていたことが、わたしたちの強みとなっていた」。切り離されていられたのは、二人が閉ざされたドアの向こうに、二人だけでいられたからこそだった。
クローズドな狭い空間で、少人数で、自分たちのやりたいことだけやって無駄なコミュニケーションや雑事に煩わされずにすむ環境というものはかなり稀有なもののようで、何十年単位で維持し続けるのは相当に難易度が高いことなのだろうなと感じさせられます。現に、カーネマン&トヴェルスキーの共同研究は、結果的には”片方の家庭の事情で、住むところが遠く離れた”ことによって終わってしまいました(もちろんそれだけが直接の原因というわけではないですが)
しかも、こういった密接な人間関係の上で成り立っている共同プロジェクトのあるあるとして、”それぞれの配偶者の理解が得られないことが多い”というものがあるらしく、なんともままならないものだなと感じてしまいました。カーネマン&トヴェルスキーのプロスペクト理論は発表以後、”天文学的な”回数の論文引用をされているそうですが(「イェール大学集中講義 思考の穴――わかっていても間違える全人類のための思考法」より)、それほどに意義のある研究であっても、研究そのものの出来不出来とは無関係なところで発展が途絶えてしまうというのは、凡百の感想で恐縮ですが「人間だなぁ」と思わずにはいられません。
あるいは友情など育まないほうが研究がさらに発展していった可能性があるのではないかとも思われますが、ふたりの気が合ったからこそ、面と向かって話し合ううちにさまざまな気づきを得て、純粋に”楽しい”と思う気持ちが原動力となったのも確かなのだと思います。トヴェルスキーがもっと長生きしていたら……などと、たらればを考えずにはいられない、切なすぎる結末。
まるでドラマのように展開していきながら、基礎的な行動経済学知識が得られるようになっていて、もしかしたら人によっては「ファスト&スロー」よりこちらのほうが話が入ってきやすいかもしれません。
サボる哲学 労働の未来から逃散せよ
私の大好きな本「はたらかないで、たらふく食べたい」の著者がコロナ以後に発行した新刊。まさかKindle Unlimitedにはないよねと著者名で検索したら一冊だけ出てきたので小躍りしながら読んだら期待通りの栗原節で最高でした。
なにかのためにではなくて、やりたいからやるだけ
わたしが人間として真に自発をかんじるとき、そこに目的なんてありはしない、理由なんてありはしない。なぜ、「麦とホップ〈黒〉」がうまいとおもうのか。しるか。なぜ、あのひとを好きになってしまったのか。しるか。なぜ、この本がおもしろいとおもってしまったのか。しるか。なぜ、このリブロースステーキがおいしいとおもってしまったのか。しるか。なぜ、このオイスターがうまいとおもってしまったのか。しるか。理由なんてない。なにかのためではない。だれかのためではない。自分のためですらない。みずからの意思をこえて、雷にでも撃たれたかのように、なにか他なるものに衝き動かされたかのように、この世ならざる力に導かれたかのように、必然的にやってしまうものなのだ。やめられない、とまらない。だれにも制御できない力がある。無支配とはなにか。おのずと発する。それが「アナーキーの自発」である。
最近、”○○のためにXXをする”という文脈についてちょっと食傷気味というか、もうそのワードが出てきた時点でちょっと眉に唾をつける準備をしておくぐらいの心構えでいたいなと思うようになってきました。家族のために働くとか、将来の自分のために貯金するとか、お金を稼ぐために教養を身につけるとか、人生を豊かにするために哲学を学ぶとか、社会のために貢献するとか、そういった言説がもう全部胡散臭く聞こえるようになっています。
「〇〇のために」、という言葉はあまりにも便利すぎ、軽率に使えすぎるせいで、定型文化したペラペラなツールになってしまったように思います。便利に使うだけならまだしも、やろうと思えばそのワードひとつで罪悪感や劣等感や焦燥感を煽り、他人を操作することまでできてしまいます。
もう「〇〇のために」とかはみんな充分がんばってるし、聞き飽きてもいるので、いっそなにかのためにではなくてただやりたいからやるをやっていこうではないか、という著者の主張は、なんだかものすごく納得のいくものでした。”○○のためにXXをする”というときの”XX”は、どうしても副産物的なものとして捉えられてしまうものですが、ただXXがしたいのだ、それがなんのためだとか、なんの生産性があるかとか、どんなことに発展してどんな人の役に立つかとかはどうでもいいのだ、と開き直ってしまう態度は、なんというかすごく”本当のこと”だなと感じられました。
ダンジョン飯
「読んでよかった本」というタイトルの記事には、あげないわけにはいかないやつです。長年追いかけていたダンジョン飯が、ついに完結してしまいました。
ダンジョン飯は、とにかく絵がうまくて好きなのと、作者のファンタジー観がちょうどよくて好きな漫画でした。この先の人生をダンジョン飯の新刊のない状態で暮らさなければならないと考えるだけでちょっと鬱になりそう。まだアニメがあるからなんとか正気を保てていますが……。
ネタバレをしたくないので詳細は省きますが、個人的な”欲”や”願い”といった、人間を人間たらしめたり、その人の原動力や生きていく意味にもなったりする力についての作者の哲学が込められており、物語のたたみかたも綺麗ですんなりと入ってきて、飲み込むことができました。
たとえ周囲に理解されなかったとしても絶対に手放すことのできない大事な価値観を、主人公であるライオスたちパーティをはじめ各々のキャラクターがちゃんと大事にしているところが本当に好きです。一見、物語の過程で芯がブレたように見えるキャラクターも、それはブレたのではなくて大事な変化として受けとめたのだとわかるので、とても前向きな気持ちで応援することができます。好きです……。
2023年に読んだ本一覧
- 21世紀の啓蒙 上: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩
- キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々
- ネット右翼になった父
- ヤバい経済学
- 映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形
- 言語オタクが友だちに700日間語り続けて引きずり込んだ言語沼
- 出セイカツ記 衣食住という不安からの逃避行
- 人生の短さについて 他2篇
- 対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉
- 断片的なものの社会学
- 独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法
- ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観
- 実力も運のうち 能力主義は正義か?
- 積読こそが完全な読書術である
- 再読だけが創造的な読書術である
- 言語が違えば、世界も違って見えるわけ
- ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論
- 21世紀の啓蒙 下: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩
- サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福
- 読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊
- アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?これからの経済と女性の話
- 労働なき世界: 労働だけが罪であり、余暇だけが世界を救う
- LIFE SHIFT2: 100年時代の行動戦略
- HELP!「人生をなんとかしたい」あなたのための現実的な提案
- 言語の本質
- 作家の仕事部屋
- 科学者たちが語る食欲
- 不道徳な見えざる手
- タタール人の砂漠
- モンテーニュ 人生を旅するための7章
- シンプルで合理的な人生設計
- ローマの哲人 セネカの言葉
- ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために
- ファスト&スロー(上)
- 千の顔をもつ英雄(上)
- 哲学100の基本
- ぼくたちは習慣で、できている。増補版
- ずるい考え方 ゼロから始めるラテラルシンキング入門
- 知的生産の技術
- 私の生活流儀
- 超訳自省録 よりよく生きる エッセンシャル版
- 寝そべり族マニュアル: なるべく働かないで生きていく
- すごい貯蓄 最速で1000万円貯めてFIREも目指せる!
- 生きるための哲学 ニーチェ[超]入門
- あるノルウェーの大工の日記
- サボる哲学 労働の未来から逃散せよ
- 後悔の経済学 世界を変えた苦い友情
- 生きるための哲学
- ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち
- その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え
- イェール大学集中講義 思考の穴――わかっていても間違える全人類のための思考法
- フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔
- はじめてのスピノザ 自由へのエチカ
- ダンジョン飯(13)(14)