2月に読んだ本のまとめです。
「運動の神話」(上)(下)
1月にPS5を買ってゲームばっかりしているせいであんまり本が読めていませんがFFが楽しすぎるから開き直っています。けど気になっていた「運動と神話」は上下巻とも読めて満足!!
人間はエクササイズをするように進化してない
つまり一言で言えば、私たちは極力体を動かさないように進化してきたわけだ。より正確に言うと、私たちの体は、身体活動を含む非生産的な機能に対して、エネルギーを十分にではあるが過度には振り向けないように選択されてきたのである。ここで「極力」という修飾語をつけたのは、当然のことながら、人は動かなければ生きていけないし、成長することもできないからだ。狩猟採集民だったあなたの祖先も、子供のころは、運動能力を高めたり、体力やスタミナをつけたりするために遊ぶ必要があっただろう。だが大人になると、食べ物を探したり、仕事をしたり、連れ合いを見つけたり、殺されないよう気を付けたりしなければならなかったはずだ。また、ダンスのような社会的に重要な儀式にも参加する必要があっただろうし、そうしたいとも思っただろう。しかし、エネルギーが不足しているときには(それが常態だった)、余計な身体活動は、生存と繁殖に充てられるはずのエネルギーを減らしてしまう。賢明な大人の狩猟採集民は、スリルを得るだけのために、八キロ走って五〇〇キロカロリーを無駄にするようなことはしない。
(「運動の神話 上」)
「運動の神話」では、「人間はエクササイズをするように進化してない」というフレーズが繰り返し強調されます。
狩猟採集時代の人類はエネルギーを無駄に消費するようなことをすれば命の危険性すらあったため、必要もないのに何キロも走り込みをしたり、ウェイトトレーニングをすることなどありませんでした。人間の基本的な人体構造はその頃から変わっていないにも関わらず(つまり人間は”基本的には怠け者”であるにも関わらず)、接種できるエネルギーの量が飛躍的に増えたため、現代人は太りやすくなったし、かといって”痩せるための運動”などが易々と行えるような不撓不屈の精神を持ち合わせてはいない、ということです。
自転車通勤では痩せない理由が判明
もし私が一万歩余分に歩いたとしたら、疲労感と空腹感が増し、失ったカロリーを取り戻すために休息して、食事の量を増やすだろう。進化の観点から見ると、この衝動は理にかなっている。自然選択は究極的に、できるだけ多くのエネルギーを繁殖に充てられる個体を優遇するため、私たちの生理機能は何百万世代にもわたってエネルギー、とりわけ脂肪を蓄えるように調整されてきた。さらには、近年まで過体重や肥満になれる人などほとんどいなかったため、私たちの体は、余分な脂肪の量ではなく、体重が増えたか減ったかを第一に感知するようになっている。痩せていようががっしりしていようが、エネルギーバランスがマイナスになると(ダイエットによるものも含む)飢餓反応が起こって、エネルギーの均衡を取り戻せるようにし、さらに望ましいこととして、体重を増やしてより多くのエネルギーが繁殖に振り向けられるようにするのだ。アンフェアに思えるが、痩せていても肥満体でも、約四・五キロ痩せると食べ物が欲しくなり、体を動かしたくなくなるのである。
そしてここに、現代と過去におけるウォーキングの大きな違いがある。もし私が一万歩余分に歩いて、体のエネルギーバランスがマイナスになったとしても、ウォーキングで生じた余分なコストを帳消しにするのは、文字通りお茶の子さいさいだ。ドーナツやゲータレード、そして机に向かって一日中座ったりすることで簡単にエネルギーを補給できることは、先に見てきたDREW研究の直観に反する結果、すなわち、最も多くウォーキングを行なった女性たちの体重減少が予測より少なかった理由を明らかにしてくれる。要するに、彼女たちはより多く食べたのだ。
(「運動の神話 下」)
私が毎日片道40分かけて自転車通勤をしているにも関わらず、体重が1キログラムたりとも減らない(むしろ年々着実に増えていっている)理由もしっかり書かれていました。
運動をすると、消費したカロリーに体が危機感を覚え追加のカロリーを摂取するように働きかけるというのは、毎日帰宅中についついコンビニで買い食いをしてしまう自分としては身をもって実感しているところです。そこまでの飢餓状態にあるとは思えないものの、気分的にはいわゆる”シャリバテ”に近いような状態になり、ペダルを漕ぐのが非常につらくなってしまいます。
コンビニはそういうとき、ちょっと飲み物やホットスナックなどを買いがてら休憩をするのに最適なんですよね。現代においては、ちょっとその辺の道路に腰かけて、水筒の水を飲みながら休憩……などということが非常にやりにくいのも、”運動していないにも関わらず痩せない理由”の一助になっているような気もします。
日々の運動を、生活スタイルに埋め込む
運動によって放出されるこれらや他の化学物質は、運動を促すのに役立ちはするが、ほとんどの場合、好循環において機能するということに欠点がある。一〇キロ近く歩いたり走ったりすれば、ドーパミンやセロトニンなどの化学物質が分泌されて気分が良くなり、またやりたいと思えるが、座りがちの生活をしていると悪循環に陥ってしまうのだ。不健康になればなるほど、脳は運動に対して報いることができなくなる。これは典型的なミスマッチだ。私たちの祖先には、体を動かさない不健康な人はほとんどいなかったため、運動に対する脳の快楽的反応は、座りっぱなしの人によく働くようには進化してこなかったのである。だとすれば、社会として、そして個人として、私たちは何をすべきだろうか?とりわけ不健康な人にとって、どうすれば運動をもう少し楽しく、やりがいのあるものにできるだろう?
まずなにより、運動は必然的に楽しいものだ、というふりをするのはやめよう。とりわけ、定期的に運動をしない人にとってはそうではないのだから。もし自分がその一人だと思い当たる人は、まず、一番楽しいと思えるタイプの運動、もしくは最も不快ではないタイプの運動を選ぶことから始めよう。それと同じくらい重要なのは、運動している間、自分が楽しいと思えることで気を紛らわす手段を見つけることだ。少なくとも、そのような気晴らしがあれば、運動の不快感を軽減することができる。
(「運動の神話 下」)
運動をするとドーパミンなどの脳内物質によって気分が良くなったり、健康な毎日を遅れる(確率が高い)ということはわかっていながら、”適度な運動”を習慣化することは困難を極めます。私も去年原付バイクが故障し、通勤手段が自転車しかなくなったため、最初のうちはクタクタになりながら通勤していました。が、慣れてくるともう自転車通勤以外はしたくないなと思うまでになりました。
適度な運動やリフレッシュができること以外にも、バイク通勤よりも安全なこと、通勤にかかるコストが(買い食いの費用を除けば)ゼロなこと、自動車などよりも小回りがきいて散歩感覚で通勤ができることなど、理由はいくつもあります。しかし逆を言えば、著者が指摘するように、「運動は楽しいものだから」というだけの理由では絶対に長続きしなかっただろうなと思います。
人間の構造上、ただ運動をするためだけの運動は長続きしない確率の方が高く、”通勤手段を兼ねる”など理由を複合することによってようやく”適度な運動”を達成することができます。それは狩猟採集民が、日々の糧を得るための狩りや採集などを兼ねなければ運動をしなかったのと同じで、結局、人間は必要に迫られない限り自分の体を動かすことすらできないのだ……ということなのかもしれません。